古典学エッセイ

渡邉顕彦:お金の話


キュメ(アイオリス)のテトラドラクマ、前二世紀半ば~後半

 古代ギリシア・ローマ貨幣については言うまでもなく貨幣学(または古銭学:英Numismatics)という学術分野で数世紀に渡って蓄積された重厚な研究がある。筆者は一応西洋古典学者ではあるが貨幣学者ではなく、ささやかな貨幣収集を十年ほど前に始めたにすぎない。ただ独自の研究を成すレベルに行かなくても、古代ギリシア・ローマ貨幣についての若干の知識を有していると古典教育に益すところがあるとは実感している。

 古代ギリシア・ローマ貨幣は大理石像や壺絵等と比べると安価であり一般人でも入手できるという利点がある(後で述べるが安ければ数百円程度、場合によっては只で手に入るものすらある)。所有が法的に規制されている国もあるが、日本では自由に取引入手出来る。ちなみに日本以外でも米国、英国、スイス、ドイツ等いわゆる先進国においてギリシア・ローマ貨幣の取引・所有は基本的に自由であり、街中に古代貨幣を扱う店舗があったり愛好者グループが定期的に自慢のコレクションを持ち寄ったりしていることも珍しくない。

 筆者が古代貨幣の収集を始めたのは十年ほど前で、当時米国シアトル近郊の大学で教えていた。同じ大学で貨幣収集をしている同僚が三人おり、いずれも(所属分野も貨幣の収集対象も)古典以外が専門だったが、古代ギリシア・ローマは貨幣コレクションの基本だということで彼等から現物の入手方法、真贋の見分け方、グレードの判定等について初歩的な手ほどきをうけた。その後数年間シアトルとバンクーバーで古代貨幣収集家達のクラブ会合に出席したり定期的に開かれる貨幣市で業者を訪ねたりして少しずつ学んでいった。帰国してからは忙しく日本の好事家団体には参加出来ていないが、東京にあるギリシア・ローマ貨幣専門店舗に時々お邪魔させていただき、教育資料として貨幣を購入している。

 最古のギリシア貨幣は紀元前六百年ごろのものとされ、以降、西ローマ帝国滅亡まで連続してギリシア・ローマ文化圏の何処かしらで製造されているので、貨幣の変遷をみていくと、文献学とは少し違った角度からではあるが、抒情詩人からいわゆる教父の時代までを俯瞰することができる。ちなみに数ある古代ギリシア・ローマ貨幣の中で最高の逸品は紀元前四百年頃、シラクサイで型掘り師エウアイネトスによってデザインされたアレトゥサのシリーズとされる。良い状態だと数千万円はするので筆者は当然持っていないが、日本でも所有者はいるらしい。うらやましい限りである。ただ比較的求めやすく、かつ歴史や文化の教材としてある程度役立つ貨幣もあるので、以下三種類について書く。

 まずヘレニズム後期、前二世紀ごろの銀ドラクマやテトラドラクマは現在数万円から数十万円で入手できるが、美術的にも技術的にもレベルが高いものが多いと感じる。あくまで素人の個人的な感想ではあるが、このあたりの良品は上記エウアイネトスのものと比べてすらそれほど遜色がないように見える。また特に共和政ローマに呑み込まれる直前のアテネや小アジア諸都市はστεφανηφόροι(sc. δραχμαί etc.:英stephanephoric)と称される、裏面周囲に冠模様を巡らした銀貨(イラスト参照)を大量に発行しており、収集人口が少ないおかげか求めやすい割に美品が多い。これらを政治的独立を失う直前のギリシア諸都市が後世に残そうとした、彼等の数世紀にわたる伝統の最後の輝きだとみるのは穿ちすぎだろうか。

 次に個人的に求めやすく興味深いと感じるのはローマ帝国初中期の銀デナリウス貨である。こちらは美品が数万円から時には数千円で手に入る。一般的にローマの貨幣はギリシアのものに比較すると小ぶりで迫力や美的価値をそれほど感じさせないが、代わりにデザインが細かく貨幣自体に刻まれている文字情報も段違いに多いので、文献学的にはかなり面白い。そもそも通貨自体、国家的共同体を代表するものであり、古代貨幣も黎明期より一貫して発行した共同体のプロパガンダ作品として「読む」ことが可能であるが、ローマ帝政期のコインは特に(本体に刻まれている、そして周辺状況の)情報量が豊富で調べ甲斐がある政治的プロパガンダテクストである。アウグストゥス以降、三世紀半ばまで使われた銀デナリウスは基本的に表面に皇帝、裏面に何がしかの(敬神、食料供給の安定、軍団の団結等)政治的メッセージが刻まれている。いわゆる五賢帝のものも、あるいは例えばネロのものも銀デナリウスは多く出回っており、授業でもこれらを使うとローマ帝国の技術レベルや繁栄を伝えやすい。

 最後に三世紀半ばから銀デナリウスにとってかわる、いわゆるアントニニアヌス貨やそれに準ずる銅貨だが、これらは状態が良いもので数千円から数百円、状態が悪い(しかし刻印や図像は判別出来る)ものだと一枚百円程度であり、米国の業者には他のコインを買ったおまけとして只でくれる者すらいる。しかしこのような十把一絡げの品でもよくよく見ると表面が背教者ユリアヌス帝だったり、裏面にオオカミの乳を吸うロムルスとレムスの図像があったりと意外と「使える」ものがあったりする。また一応古代の歴史資料ではあるので、多くの学生に手渡して後期ローマ帝国のインフレのすさまじさを体感してもらうことも出来る。ちなみにアントニニアヌス貨は表面の銀メッキ様のものが残っている場合があり、資源欠乏に悩まされた帝国がまさに状況を「糊塗」している様子がわかる。いずれにしても、この時期の貨幣を幾つか並べれば三世紀半ば以降のローマ帝国経済の劇的な悪化は一目瞭然である。ところで後期ローマ帝国の貨幣も政治的メッセージはしっかり伝えているし(特に蛮族の侵入が盛んになると「蛮族を撃退する皇帝」像が頻繁に使われる)、三世紀半ば以降、造幣所が帝国中に散らばり、それぞれの所の記号がつけられるようになるので、ロンディニウムからアンティオキアまであちこちで製造されたコインを集めることも出来る。

 ちなみに今年十月、所属大学における学園祭でヘレニズム期のテトラドラクマ四点と、それらについて学生が作成したパネルを中心にゼミ展示を行った。二日間で百五十名ほどの方に来場いただき、西洋古典文化の宣伝に多少は貢献できたのではないかと思う。

参考文献
柘植久慶(2004)『アレトゥサの伝説』中央公論社
Noreña, C.F. (2011) Imperial Ideals in the Roman West. CUP.

渡邉顕彦(大妻女子大学)