古典学エッセイ

木曽明子:「おお、ゼウスよ」

 ジョン・F・ケネディ大統領がパレード中に狙撃されたのは1963年だから、もう50年も前のことになる。当時テレビはまだ高価で、電気屋の店先などでしか見られなかったが、遠いアメリカの事件が生々しく映し出されている画面を、私も釘づけになって 見た。翌日の新聞は現場の様子を詳細に報じる記事で埋め尽くされていたが、その中の「夫人はその瞬間、おお、わが神よ、と叫んだ」という一文に、私はジャクリーヌ夫人の悲痛な声を耳元に聞いたように感じた。

 ところがしばらく後にある大学教授がこの一行を取り上げて、新聞記者の「無教養」を嘆いている文章にぶつかった。いわく、Oh, my God!という英語は、とっさの場合にキリスト教国の人が思わず口にする言葉で、日本人なら「ああっ」とか「大変!」とかいう叫びである、おお、わが神よ、では緊迫した現場の状況は伝わってこない・・・。私は、外国語というものに目を開かれた思いをした。

 何十年も後に、ゆくりなくも私はデモステネスの弁論の翻訳チームの一人になった。原告被告が熾烈な論戦を交わす法廷弁論は、相手の行動や信条を攻撃し、さらに生活態度や交友関係を槍玉にあげ、はては家族や先祖の不祥事までもあげつらう罵詈雑言 に満ちている。他方で不正を見逃し、正義を行わない陪審員(市民)を譴責する場面もある。そんなふうに激した言葉の合間に、あるいは抑えた説得口調ながらここぞというときに、「おお、ゼウスよ」だの「おお、ヘラクレスよ」だのという神や半神への呼びかけが出てくる。私は自分に言い聞かせた、「ここはこなれた訳でないといけない、口を衝いて出る憤りや慨嘆の言葉なのだから、それなりに日本語らしい表現にしなければならない、一般読者にとってただでさえとっつきにくい古代ギリシアの弁論が、馴染みの薄い神や半神の名で唐突に中断されては、なおのこと敬遠されるだろうと」と。そこで文脈に合わせて間投詞句にしたり、強調の文言に代えたりした。数十年前の「教訓」をようやく生かしたつもりでいた。

 あるとき翻訳チームのS氏の原稿を見せてもらったところ、「おお、ゼウスよ」「おお、ヘラクレスよ」と、神の名をそのまま残した訳であった。私がケネディ暗殺の記事のことを話すと、S氏は「それはそうだけど、文化を尊ぶという意味で、ギリシア人の神の名前は消したくない」と言った。

 それ以来私は迷っている。学生時代の幼い英語知識を直撃された記憶は、なおこびりついたように頭のどこかにある。一方でチーム・メイトの言う通り、日常言語にも神の名を挟むギリシア人の生活感情は、そのまま翻訳で伝えねばならない、とも思う。もとより強い断定や感嘆句に使われる神の名は、ほかにもアポロンやポセイドン、女神アテナやデメデルなどと数多い。そして時と場合による名前の使い分けもある。驚きあきれた態で叫ぶときにはヘラクレス、重々しく威圧的に出たいときにはゼウス、とかである。また「旅人を守るアポロン」「予見し給うアテナ」などと、神の名に枕詞ないし添え名がついたりもする。こうなると確かに「こなれた」日本語への置き換えは犯罪的ですらある。

 法廷弁論は前四世紀アテナイの悪名高い“訴訟中毒“社会の所産であるから、さすがにホメロスの叙事詩翻訳でひっかかる類いの古雅な表現はない。「何たる言葉が、汝の歯の垣を洩れたのか」を直訳すべきか、「馬鹿なことを言うな」の意を伝えるべきか、『オデュッセイア』を訳しながら恩師松平千秋先生は悩まれたという。

 蛇足ながら、ケネディ暗殺を題材にした『ダラスの紅いバラ』(ネリン・E・ガン著 内山敏訳 現代世界ノンフィクション全集24 筑摩書房1976年)では、衝撃の瞬間の英語は以下のように訳されている。

「ああ、私の夫が殺された!ジャック!ジャック!」
(Oh my God, they've killed my husband…Jack, Jack!)

(JackはJohnの愛称)

木曽明子