古典学エッセイ

金山弥平:神の知と蝋の書き板

 神と人間はどう違うのか? 古代ギリシアでは、神は不死で労苦を免れた存在、人間は労苦して生き、そして死の定めを免れえないものであった。加えて両者はその知のあり方においても決定的に異なっていた。

ホメロス『イリアス』第2歌484以下では次のように歌われている。

オリュンポスに住まい給うムーサらよ、今こそわたくしに語り給え―御身らは神にましまし、事あるごとにその場にあって、なにごともすべて御承知であるのに、われらはただ伝え聞くのみで、なにごとも弁えぬものなれば―ダナオイ勢を率いる将領たちはいかなる人々であったかを。(松平千秋訳)

 神々は、オリュンポス山の頂から全世界を一望のもとに眺めるとともに、いつでも好きなときに好きな場所へとズームインし、細部を詳細に捉えることができる。ヘクトルがアキレウスに追われて必死に逃げる際には、不死なる神々は、上からの視点と横からの視点をもって、生死をかけた二人の競走を見物し応援する(『イリアス』第22歌)。それはあたかも、オリンピックのメイン会場最上階貴賓席に坐る観客が、競技場全体の光景とアストロビジョンに映し出された詳細な映像の両方に一喜一憂しているかのようである。

 人間は虫のように地を這って生きる動物であり、鳥の目は具えていない。しかし、地理的感覚に優れたある種の動物と同じように、地上をナビゲートするなかで、人もまた俯瞰的視野を自然に獲得していく。視点の低い子どもにとって、障害物の向こうに何があるかを知る俯瞰能力は、生死をも左右する重要な機能であると同時に、「高い高い」やつかまり立ちの際の子どもの笑顔に見られるように、世界の広がりに伴う喜びに通じるものでもある。木切れや小石を、人間や動物や車に見立てて遊ぶのは、世界中どこでも見られる現象であるが、子どもたちはその遊びをとおしても、横からの視点と上からの視点を統合することを学んでいく。人間にはいわゆる「認知地図」を構成する能力が具わっており、その能力が、水平的視点の世界で生きながら、鳥の目を獲得していくのを助けるのである。

 ギリシアで最初に地図を作成したのは、アナクシマンドロス(前610-540年頃)であったが、彼に先立つこと約200年ごろ(前750年ごろ、あるいはそれ以前)に、ギリシア人は、語られた言葉を、母音と子音から成るたった24の記号によって分節化して記録することができるアルファベットを発明した。地図の作成は、アルファベットの発明と無関係ではない。この簡単な筆記システムの発明は、時代と空間を越えたコミュニケーションを可能にし、各自が意識しうる世界を広げ、大量の情報を後世に、また同時代の別の地域に生きる人たちに伝えることを可能にしたのである。また文字によって思考内容を目の前に示すことは、他者および自分自身の思想を比較し、批判し、発展させることをより容易にした。さらにまた、目に見える徴と耳に聞こえる音声を関係づけることは、人間の脳の異なる領域間のシナプス結合を促進する点において、可塑的な脳の発達を促す画期的な出来事でもあった。

 多くの情報の保存と運搬という点では、細かい字で書き記すことができ、また重さも軽いパピルスが最良の記録媒体であったが、しかし思想の批判的展開という意味では、巻物に記された内容を確認しにくいパピルス形式の書物よりは、蝋の書き板の方が優れていた。ギリシア人もローマ人も、木の板を浅くくりぬいて蝋を流し込んだ書き板をいく枚か束ね、日常の記録に用いた。

 ホメロスは、上述の詩句に続けて次のように語る(『イリアス』第2歌488以下)。

イリオス城下に攻め寄せた、かくも多数の将兵の数と名の一々をことごとく挙げて語るのは、アイギス持つゼウスの姫君、オリュンポスに住まい給うムーサらよ、御身らが教え聞かせて下さらぬ限り、よしやわたしに十の舌、十の口、また嗄れることなき声と青銅の胸(肺臓)があろうとも、到底この身の力には及びますまい。

このように言いながらも、ムーサらに教えられたことを間違えずに語りうるホメロスは、明らかに自分の並々ならぬ記憶力を自負している。しかし、脳に情報を留めることは、ワーキングメモリーの容量を狭め、思考を束縛することにもつながる。これに対して、蝋の書き板に思いついたところをただちに記録し、簡単に参照しうるものとするなら、脳の負担ははるかに軽減される。また、書き板上の同一空間内で視点をあちらこちらに自由に移動させて考察するなら、われわれは、一時点においてただ一つのことしか考えられないという拘束から比較的自由になり、複数の事柄について、その共通点と相違点を探し出したり、比較検討したりすることができる。今日ではコンピュータがわれわれの思考のモデルになっているが、ギリシアでは、蝋の書き板への印刻が、人間の思考のメカニズムを考察するモデルとして用いられるようにもなった。プラトン『テアイテトス』191C以下で展開され、ストア派が継承し、さらには後の経験論哲学者たちが心のモデルとしたタブラ・ラサ(tabula rasa)は、この蝋の書き板に由来するものである。また古代記憶術の創始者詩人シモニデスの方法が、諸々の場所を選び、そこに記憶に留めたいと思うもののイメージを描き出すとき、全体としての場所は蝋の書き板のようなものとして、またイメージはそこに書き留められる文字のようなものとして考えられていた(キケロの『弁論家について』第2巻354)。

 蝋の書き板は、俯瞰的に全体を見渡すことを可能にする点で、知識に至りえない人間に、神の視点に近い何かを与えるものであった。プラトンは、探求を旅に譬え、知の一つのあり方として、アテナイからラリサへと至る道を知ることを引き合いに出す(『メノン』97A)。およそ350キロ離れたラリサへの道を知ることは、神の知に近い認知地図を具えることにほかならない。探求の旅をとおして発見したことを、蝋の書き板の上に表わすなら、われわれは、自らの思索の全体像を明確化するとともに、それを手引きとして、各部分の地勢をより詳細にし、神の視点に向けてさらなる探求を行なうことができる。

 プラトンの死後、『国家』の冒頭の数語をいろいろな順序で何度も書き直した蝋の書き板が見つかったと伝えられている(ハリカルナッソスのディオニュシオス『文章構成法』第25章)。書き直しの最終結果である「下っていった・昨日・ペイライエウスへ・グラウコンとともに・アリストンの息子の」の最初の一語「カテベーン(下っていった)」は、哲学者が至りえた神に近い俯瞰的な高みから、人々が奥底の壁に投影された影を見て暮らす、第7巻の洞窟の世界に下り、視界を遮る障害物に満ちた世界をナビゲートしていくことを示唆する。われわれは、壁に映った影を見ながら生きる洞窟の囚人にすぎないかもしれないが、しかし、たとえ粗雑なメモ程度のものであっても、自らの魂の書き板に記された俯瞰的認知地図を手掛かりとして、またプラトンが『国家』において記す(洞窟内での)ソクラテスの議論によって、さらにはプラトンだけでなく、優れた思想家たちが自らの探求の跡を刻印した書物の導きによって、洞窟の奥底の壁ではなく正しい方向に目を注いで、善き生と考察の試みを続けていけば、われわれ各自の認知地図は、必ずや、ナビゲーションをとおしてより優れたものへとバージョンアップしていくはずである。

 『歴史』(「ヒストリアイ」、文字どおりには「探求」またその「報告」)を著わしたトゥキュディデスは、その探求の結果を「永遠の財産」と呼んだ(第1巻22.4)。自分たちの祖先が発明した記録手段、アルファベットの力を自覚的に意識し、それを用いて、自らの探求の歩みの跡を自らの名とともに後世に伝えた古代の思想家たちは、みな多かれ少なかれ、プラトン『饗宴』209が記すように、自らの不死を確立しうる永遠の財産として、各々の著作を意識していたと思われる。実際、そうした古代人の探求の記録は、先が不透明な今日の世界をわれわれがナビゲートしていくことを助ける「永遠の財産」であると言っても過言ではないのである。

金山弥平(名古屋大学)

蝋の書き板
左:前500年頃の画家ドゥーリス作(ベルリン美術館)
(Pottery Fan / Wikimedia Commons)
右:詩人サッポーを描いたとされる(ナポリ国立考古学博物館)
(© DIRECTMEDIA Publishing GmbH / Wikimedia Commons)

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