日本西洋古典学会第56回大会

研究発表要旨

クィンティリアーヌスの議会弁論に関する理論について

吉田 俊一郎

 クィンティリアーヌス『弁論家の教育』は、理想の弁論家を育てることを目標に掲げており、それに必要な修辞学の全項目を教育の順序に沿って記述している。彼が考える理想の弁論家像はキケローの理論に強く影響されており、キケローの描く理想が普遍的なものであり彼の時代にも実現可能なものであることが前提にされている。しかし帝政期の弁論の置かれていた現状はキケローの時代と大きく異なり、現実の活躍の場は狭められ、その代わりに架空の弁論(declamatio)や歴史記述や詩作などが弁論の才能を発揮する場として重要な意味を持つようになった。彼はこうした現状を経験していたにもかかわらず、キケローの理想を実現させるという意図を決して放棄しようとしない。この矛盾がこの著作の様々な箇所に影響していることは既に指摘されてきた。

この発表では、この矛盾が最も顕著に現れている箇所として、彼の議会弁論についての記述に注目する。帝政になって後、元老院や民会はキケローの頃のような重要性を失って実際に議論する場として機能しなくなったため、この分野に関する彼の記述は、実際の議会弁論について論ずるという体裁を取ってはいるものの、架空の弁論や歴史記述や詩に見られる弁論を前提として書かれていると推測できるからである。

 具体的には、3巻8章を中心とする議会弁論に関するクィンティリアーヌスの記述を分析し、そこに見られる矛盾を上記の背景や彼の意図と結びつけて論ずる。議論の項目は以下の通りである。(1)弁論の種類分け(genera causarum)について。弁論の種類を区別する際に彼が用いた「場」と「内容」という二つの基準を示し、その使われ方から、彼が議会という場を既に自明のものと考えていなかったことを明らかにする。(2)聴衆や話者の性格付け(mores)について。彼が「性格」(mores)という語に複数の意味を付していたこと、また彼がこの語を議会弁論に関して用いる時には、それを架空の弁論と密接に関連付けていたことを示す。(3)弁論の文体(genera dicendi)について。架空の弁論の文体改革を主張する際に彼が模範とすべきだと考えていたのは実際の法廷弁論であり、実際の議会弁論は念頭に無かったことを示す。(4)利益と名誉(utile et honestum)の対立について。彼が議会弁論の中でも重大な問題としてこれに言及しながら、この問題を大きく扱っている12巻では、結局この問題の法廷弁論に於ける側面しか扱わなかったことを示す。これらの論点について、クィンティリアーヌスの矛盾の原因を探り、それらが実際の議会弁論を経験していないことから生じていることを結論付ける。さらに、議会弁論に関する学説や自分の経験の不足を補うために、彼が修辞学の他の様々な分野の学説を応用しようとしたことも示す。


アリストテレス探究論における「何であるか」と「何故にか」との同一性について

日吉 大輔

 アリストテレスは『分析論後書』B巻にて彼の哲学にとって重要な主張をしている。それは、「何であるか(ti esti)」と「何故にか(dia ti esti)」とは同じであるというものである。「何故にか」は根拠を問い、推論(syllogismos)や論証(apodeixis)と関連を持つ。他方で「何であるか」はソクラテス以来事柄自体を探究する伝統的な問い方であり、これを開示する説明言表は定義(horismos)と呼ばれる。そして二つの問い方の同一性からアリストテレスは論証を通じて「何であるか」を明らかにする探究論を語る。

この同一性は探究が成功する際の二つの問いの重なり合いを示し『分析論後書』B1-10で四回語られる(B2,90a14-5;B2,90a31;B8,93a4;B10,94a6-7)。だが表現が各々異なるのである。B2の「何故にか」はB8では「あるかどうかの根拠(to aition tou ei esti)」と表記される。またB10では同一性が具体例で示され「同じ説明言表が異なる様式で語られている。一方では連続的な論証であり、他方では定義である(94a6-7)」と説明されている。

 では、なぜ表現が異なるのだろうか。場面によってどのような独自の役割を担うのか。このことを私は本発表で明らかにしたい。そのためにはB1-10に通底する一つの考え方を捉え、議論展開を特徴付ける必要がある。

 彼は「何であるかを定義が開示する(B3,91a1)」という考えに基づき一貫して「何であるか」の探究をベースに議論しており、そこへいかなる仕方で推論や論証が関わるかという点からB1-10を展開している。

まずB1-2では彼の探究論が豊かな事例により語られる。続くB3-7では伝統的な証明法(本質の推論や分割法)と定義論が批判的に吟味される。その結果「何であるか」を開示する定義と、存在を証明する論証との非関連性が導かれる。すると、「何であるか」と存在との非関連という困難が生じるように見える。だがB8-10における彼の探究論の提示がこの事態を乗越えるのである。そこで私はB1-10を探究実践(B1-2)、伝統的枠組(B3-7)、彼の探究論(B8-10)の三相として区別したい。これらから、かの同一性の異なる表現が理解されるだろう。

B2,90a14-5とB2,90a31は実践次元に相応しく直接疑問で語られる。後者には認識の側面が現われる。問いと応答の実践が適切に結び付いてこそ探究は成功する。またB8,93a4は伝統的枠組の議論を通じ、存在の証明という論証に固有の役割が「あるかどうか(存在)」から「何であるか」へという秩序の中で理解されたことを表現する。さらにB10,94a6-7は彼の探究論の帰結として定義と論証の関連を明示する。

 かくして、かの同一性は三相による明確化を示すが故に異なる表現を持つと言える。


懐疑と政治―Paradoxa Stoicorum, De finibus(3,75), Lucullusにおけるストア派の賢者論をめぐって― (3,75),

高畑 時子

 キケロ(C)哲学書における政治思想について、先行研究は数少なく、その分析も登場人物や話者の政治背景に留まり、哲学書執筆意図をカエサル批判と結論づけていた。本発表は、哲学議論の内容やC独特の表現法にまで分析の対象を広げることで、従来認められている以上に複雑なCの執筆意図に光を当てようと試みる。特に着目するのは、(1)「ストア派の逆説」「認識論」「最高善と最大悪」といった「純哲学的主題」を扱う著作でも、現実問題としての政治思想が論じられる箇所があるが、(2)そこではストア派の賢者思想が批判される一方、(3)他の箇所には見られないような矛盾した論理展開が見られることである。

 矛盾の例としては、まず、『ストア派の逆説集』における政治的言及は特定の箇所に片寄るが、特に第4~第6逆説では主題とされているストア派の賢者が全く論じられず、代わりに狂人(第4 27)、最高指揮官(第5 33, 41)、富者(第6 、、42ff., 52)が名指しせず攻撃される。しかも、この部分は諸逆説の理論的説明よりも、弾劾演説の実用的なトポス集 (loci vituperandi generis cf. De orat.2,349)として書かれていると推測される。

 『善悪の究極について』3巻では、カトが75節でのみ国政に言及するが、ストア派の賢者を表わすのに不相応なローマの有力な悪徳政治家を引き合いに出す。

 『ルクッルス』でも、政治的言及は各話者の言論の序論と結論に限られるが、独断的なアカデメイア派(ストア派に一致)を擁護するルクッルスが、懐疑的アカデメイア派に立つCの発言(Catil.1,10)に関し、Cは知の確実な認識は不可能であることを立証すべきであるのに、カティリナの陰謀暴露の功績に関して自分の意見を明言するのは懐疑的態度と矛盾する、と攻撃する(62, cf. 13f.)。これに対し、Cは、何故民衆派が民会へ呼び出すような真似をするのかと問いただすのみで明確に答えず、代わりに、大衆に(議案の賛成票獲得などのために)民会に強制出席させて懐疑的思考を放棄させようとする民衆派の独断的態度を、苦痛を全く感じないストア派の賢者に例えて遠回しに批判する (144, cf. 135f.)。

 このような表現を本発表は、Cが論理的であるべき理論的哲学書に論理的矛盾を置くことで読者の注意を引きながら、政治思想や国政批判を特にストア派の思想をめぐる議論に隠し、しかもその矛先をカエサルに留まらず、ローマの覇権を狙い共和政を脅かす政敵全てに向けるためのものではないかと考える。Cは権力者に対して単刀直入の批判をするのではなく、政治的状況を鑑みながら、人命尊重に配慮した幾重にも取りうる表現で弾劾するという老練政治家としての手腕を発揮した。このようにして、Cは当時の政治背景に応じた論法、思想的立場を取って哲学の政治化を試みたと思われる。


古典期アッティカのデーモスと「ディオニュシア祭法」

竹内 一博

 前336年、デモステネスのアテナイ市民団に対する功績を顕彰するため、彼に金冠を授与し、その冠授与をディオニュシア祭の悲劇上演前に劇場で布告すべきことを提案したクテシフォンは、提案の評議会通過後、アイスキネスによって違法提案の廉で告発される。前330年、ついに開かれた裁判においてアイスキネスは、争点の1つである劇場における冠授与の布告について、「布告法」と「ディオニュシア祭法」と呼ぶべき2つの法を巧みに組み合わせ、アテナイ人からアテナイ人への冠授与を劇場で布告することが違法であると主張した。

 本発表では、この「ディオニュシア祭法」が、アッティカのデーモス研究においては、ポリスとデーモスの関係という枠組みの中でのみ理解されてきたことに再考を試みてみたい。これまでの研究では、この法は、中心市のディオニュシア祭の時の劇場でデーモスがデーモス成員に対する冠授与を布告するようになったことを一因として制定されたと認識されてきた。ゆえに法の制定後、デーモスは中心市の劇場で布告することを禁じられたという。しかし、実際にデーモスは中心市の劇場で冠授与を布告していたのであろうか。そして、「ディオニュシア祭法」というポリスの法は、デーモスの行為を規制していたのであろうか。

 そこで、まずアイスキネス『クテシフォン弾劾』とデモステネス『冠について』の議論(Aes.3.32-48;Dem.18.120-121)を整理する。そして、「ディオニュシア祭法」やデーモスの碑文史料などを検討し、「ディオニュシア祭法」をデーモス共同体の行為ではなく、デーモス成員個人の行為に対する規制として解釈する方が妥当であることを提示する。

 さらに、デーモス、フラトリア、ゲノスといったポリス内の様々な共同体の取り決めはポリスの法に違反しない限り有効と定めた「ソロンの法」(Dig.47.22.4)についても検討を加える。ソロンに帰せられたこの法については、実際にソロンが制定したのか、古典期アテナイにおいて効力を持ったのか、もし効力を持ったとすればどのような事例があるのかといった問題が議論されてきた。そして近年、Nicholas F. Jonesは、「ソロンの法」が古典期アテナイにおいて効力を持ったと推測し、その適用例として「ディオニュシア祭法」の制定を主張している。しかし、彼の見解は、「ディオニュシア祭法」の規制対象が共同体としてのデーモスの行為であることを前提としている。また、「ソロンの法」自体、古典期アテナイにおいて効力を持たなかった可能性も他の研究者によって指摘されている。

 「ディオニュシア祭法」をデーモス成員個人の行為に対する規制と見なしうるならば、ポリスがデーモスを法的に規制した証拠にはならず、共同体の行為を規制対象とする「ソロンの法」との関係性も、そもそも見出せないと考えられるのではないか。


想起の対象としての想起説―『メノン』と『パイドン』における想起説証明の位置づけ―

金山 弥平

 プラトンは、『メノン』(以下Men.)81A-86C, 98A、『パイドン』(以下Phd.)72E-77A、『パイドロス』249E-251Bにおいて、学習とは想起であるとする想起説を提示する。このうち同説の「証明」を示すのはMen.Phd.のみであるが、これら二つの証明については次のような問題がある。 (1) Men.の証明とPhd.の証明は、どのように関係しているのか。 (2) Phd.の証明はMen.の証明の不足を補うものとして提出されているが、このことは、プラトンがPhd.執筆時点においてMen.の証明を疑問視していたことを意味するのか。Men.において、想起説の証明として提示される召使の少年を用いた実演は、ソクラテスの誘導尋問に導かれた見せかけだけの証明ではないのか。(3) 証明のみならず、Men.の想起説そのものが、探求を嫌がるメノンに学習意欲を与える方便にすぎなかったのではないか。(4)しかし、プラトンにとっては、学習とはやはり想起であったとするならば、学習の長い過程のうちで、具体的にどの部分が想起に相当するのか――真なる思いなしが原因の推理によって縛りつけられ、知識となる最終段階のみか、それとも真なる思いなし獲得の過程や、等しさの概念のような単純な諸概念獲得の過程も想起のうちに含まれるのか。

 これらの問題に答える手掛りは、通常Men.においては、召使の少年を用いた想起の実演、Phd.においては、等しさそのものの想起を例とする証明のうちに求められる。しかし「想起の例」という点からすれば、じつはMen.における想起の実演は、メノンに想起説の正しさを「想起させる」試みとして、Phd.における想起説の証明は、シミアスに想起説の正しさを「想起させる」試みとして提示されているのである。プラトンにとって、これらの対話相手二人の「想起」への言及が単なる言葉遊びであったは考えにくい。なぜなら、「学習とは想起である」とする想起説の主張を真面目に受け取るとすれば、確かに、想起説に関するメノンとシミアスの「学習」は、「想起」の実例とみなしうるからである。ここにわれわれは、少年の疑わしい想起や、等しさそのものの抽象的な想起よりも、より具体的な想起の例を直接見ることができる。  本発表は、メノンとシミアスの学習(=想起)をも手掛かりとして用いることにより、上述の(1) - (4)の問題に答える試みである。結論的には、メノンの想起という観点からすれば、少年が実際に想起したのか否かは重要でない((2)への答え)、想起の範囲は、真なる思いなしの獲得から知識の獲得までの広い範囲をカバーする((4)への答え)、Men.において夢のように呼び起こされた真なる思いなしとしての想起説を、プラトンはPhd.の証明において、原因の推理によって縛りつけようと試みはじめた((1)への答え)、その意味で想起説は、プラトンにとって真剣な考察を迫る立場であった((3)への答え)、となる。


コンスタンティウス二世のコンスタンティノポリス元老院議員登用運動再考

田中 創

   紀元後330年にコンスタンティヌス一世帝によって建都されたコンスタンティノポリスは、約四半世紀後の357年から361年にかけて、彼の息子コンスタンティウス二世によって更なる拡充措置を経験することになる。その一連の活動の中には、新規登用された元老院議員をコンスタンティノポリス元老院に大量に編入するという政策が含まれていた。この政策に関して先行研究は、地方の都市参事会員の負担回避などと対比して、コンスタンティノポリスへの有力者の集中、地方都市から一躍抜きん出た「首都」の誕生というローマ帝国東方像を描いてきた。

 本報告では主として、その様子を具体的に伝える史料である『リバニオス書簡』および『テオドシウス法典』の二史料を改めて取り上げる。先行研究は同史料をもとにして、新規に登録された議員に対しては首都居住義務が要求されたと想定し、それをもとにして中枢としての「首都」コンスタンティノポリスの出現過程を強調してきた。すなわち、帝国内各地の有力者である都市参事会員層を元老院議員として登録して、元老院の入会に伴う公職奉仕によって、その富を新都に注ぎ込ませ、首都居住を課すことによって、彼らを地方からコンスタンティノポリスに動員したというように、他の東方諸都市の犠牲のもとに成り立ったというものである。これに対して本報告では、先行研究が首都への人的資源の流入を想定させる根拠となってきた新規元老院議員に対する首都居住義務の存在を改めて検討していきたい。その方法として、先行研究でも扱われてきた『リバニオス書簡』を改めて検討しなおし、コンスタンティウス二世による元老院議員登用運動に関わった個々の人物たちから首都居住義務の存在を読み取ることができるかどうか、とりわけ首都居住義務を想定させる根拠となった数名の事例に着目し、その文脈を再解釈したい。そして、同時代史料である『テオドシウス法典』所収の法文との比較を行うことで、地方に在住する元老院議員の存在を示す情報の分析を通じて、コンスタンティウス二世の政策の実態を再構成する。同時に、先行研究はコンスタンティウス二世治世末期で元老院政策が完結したという点を強調してきたが、この問題を改めて取り上げ、後代の政策との連続性を立証するとともに、地方参事会員家系の元老院議員と出身都市とのつながりがいかなる形で保たれていたかをいくつかの個別事例をもとにして再構築していく。その結果、旧説の描いてきた首都に居住する固定的な議員像に対して、帝国東方に分散し、議員の地位を享受しながらも出身都市との関わりを保ちつづける新たな議員の姿を提示し、honoratiと呼ばれる後代に登場する古代末期特有の地方有力者の形成との直接の関連性を考察する。


中世写本の総祖本に認めうる詩行の文献学的処置について―h. Ven.136-136a行目を題材に―

泰田 伊知朗

 『アフロディテ讃歌』を写している写本の中で136行目の直後に写されている行は、136a行目と呼ばれることが多い。本発表では、136行目と136a行目について、主に取り上げる。第1に、136a行目がこれまでの校訂本で印刷されてきたやり方に対する反論をおこないたい。第2に、136a行目は削除されることが多いが、この行を残した形で、テキストを校訂するやり方について論じたい。

 『アフロディテ讃歌』の現存する写本は、24冊確認されている。私は、このうち23冊を読み、各写本の系統図を作成した。この讃歌の133-8行目は、複数の写本の中で以下のように伝えられている。系統図を辿ってゆけば、この形が現存する写本の総祖本の中にも書かれていたことは、ほぼ間違いない。

ギリシア語原文引用 133-8行(Word文書 24kbt:Graeca| Athenian注意:お使いのコンピューターによって正しく表示されない場合があります)

 136行目と136a行目をそのまま残した場合、文脈が通じない。今日、校訂者たちの間では、136a行目を削除し、136行目だけを残すことが一般的である。だが削除の仕方に問題がある。校訂本によっては、136a行目をアパラトス・クリティクスの中に含めていたり、アパラトス・クリティクスと本文の間に挿入したり、さらにどこにも載せていないこともある。もし校訂者にとって削除すべきものであるならば、総祖本に書かれていた136a行目は、本文に含められた上で、{ }で囲まれなければならない。20世紀に入り、私が確認した限り、10冊の校訂本が『アフロディテ讃歌』に関しては出版されているが、テキストに含めた上で削除されるやり方は、全く取られていない。本発表において、誤った方向に流れている136a行目の印刷方法に対して、警鐘を鳴らす。これが第1の論点である。

 また136a行目が削除されるということは、『アフロディテ讃歌』の詩人以外の誰かが、この行を作成したことを意味するのだが、そのようなサインは、写本の中には残されていない。私は、136a行目を真性の行として扱うやり方が考慮されるべきではないかと考えており、私なりの解決策を、本発表で示したい。これが第2の論点である。


伝セネカ『オクタウィア』のセネカ的要素とピエタス

宮城 徳也

 現存する唯一の完全なプラエテクスタ劇で、セネカの名で伝わる悲劇『オクタウィア』は、一部には真作説もあるが、多くの観点から偽作であることは間違いないと思われる。哲学者セネカの生きた時代の歴史的事件を扱い、セネカ自身を登場人物としていることからも、たとえ作者がセネカ作であることを装わなかったとしても、セネカの悲劇作品群を鑑賞、研究できる立場にあって、これらの諸要素を意識的に取り入れようとしたことは容易に想像される。ローマ文学において、敬神と親族愛を二つの大きな柱とする美徳ピエタスが重要なテーマであることは言うまでもないが、セネカの悲劇においても例外ではない。ギリシア悲劇に倣って、多くの作品が親族間の憎悪や葛藤を主題としている以上、ピエタスの主題は避けて通れない。

 『オクタウィア』もまた、ローマ皇帝ネロの宮廷を舞台としているとはいえ、中心は夫婦間の憎悪と葛藤である。ネロは義父クラウディウスの娘オクタウィアと愛のない結婚生活を送っていたが、ポッパエアを愛人として、妻を追放しようとする。先帝の娘への敬慕の念から、民衆が起こした暴動のために却って、オクタウィアは命も奪われることになる。神への敬意も親族への愛情もないがしろにするネロの行為を、息子に殺された母アグリッピナの亡霊が後押しする。ここに自ら手にかけた弟アプシュルトゥスの亡霊に駆り立てられたメデアの姿を描いたセネカ劇の影響を見ることもできよう。多くの研究者が偽作と考える『オエタ山上のヘルクレス』との共通点も指摘されている。

 『オクタウィア』における親族関係を整理すると、中心はネロ-オクタウィアの「夫婦」であるが、その他に登場しない人物まで入れて考えたとき、「父子」(義理の関係だがもともと親族であるクラウディウスとネロ)、「父娘」(クラウディウス-オクタウィア)、「母子」(アグリッピナ-ネロ)、「母娘」(メッサリナ-オクタウィア)、「兄弟」(義理の関係だが血縁者でもあるネロ-ブリタニクス)、「姉弟」(オクタウィア-ブリタニクス)などが考えられる。これらに関してセネカ劇(偽作の可能性のある作品も含む)に見られる対応する諸関係を整理・分析して、さらにセネカ劇に常套的な女主人-乳母、主君-側近の対話場面にも注目しながら『オクタウィア』のセネカ的要素と独創性を考える。

 以上の基本方針から、ピエタスの主題をめぐって、セネカ劇の影響を読み取り、それらを分析することによって『オクタウィア』に見られるセネカ的特徴が、劇としてのこの作品を統一する本質的構成要素となっていることを考察する。


法の支配と対話の哲学―プラトンの政治哲学とソクラテスの精神―

丸橋 裕

 英米の伝統的なプラトン研究によれば、プラトン対話篇が全体として三つの時期に分けられ、そこにプラトン自身の基本的な立場の転向の跡が見られる、ということが暗黙の了解となってきた。たしかに、彼の政治哲学に限ってみても、そこにはソクラテス的な対話の哲学、哲人統治論、そして法の支配という一見相容れない三つの理念が存在する。しかし、初期対話篇では、ソクラテスによってアテナイ市民たちに対して吟味と探究の生が勧告されていたが、中期対話篇では、イデア論にもとづく哲人統治の理想国家が構想されることによって、こうした自由な哲学的探究は排除され、さらに後期対話篇では、哲人統治の理念が放棄されて、法の支配にもとづくより現実主義的な政治組織が構想されるに至った、というような解釈ははたして正当なのだろうか。

 本発表の目的は、このように修正主義の立場から転向として捉えられてきたプラトンの政治哲学の変化が、じつは彼の一貫した原則の何らかの発展の相を反映したものにすぎないことを示すところにある。しかし、この目的を十分に達成するには、政治的テーマを扱ったプラトン対話篇の綜合的な研究が要求されるであろう。そこで本発表においては、さしあたり『法律』において法の支配の理念がいかなる原則に基づいて規定されているかを確認した上で、まず『クリトン』においては法の支配の理念がどのように胚胎されているか、そして『法律』の理想国家においてはソクラテス的な対話の哲学がどのような役割を果たしているかを明らかにする。最も重点をおきたい論点は、『法律』における「夜の会議」の本質的役割のうちに上記の三つの理念がいかに織り込まれているかである。

 『法律』の国制は、「最善の国制」を範型とする「第二の国制」であり、哲人王なき世界に生きるわれわれ自身が可能なかぎり善く生きるための具体的な道筋を示そうとするものである。したがって「夜の会議」は、「国制の守護」として組織されてはいても、けっして哲人統治者の集団ではない。その本質的な役割は、政治的権力をにぎる執政官たちが、本来の職務を離れて、有能な若者たちと共に、立法の目的である「全体的な徳」とは何であり、それがいかにして実現されうるかを語り合うことにある。「夜の会議」における哲学的な対話活動は、哲人王不在の「第二の国制」において、法の支配の理念に正義と善を志向する「知性の支配」としての自然本来性を回復させると同時に、正義の論争化が避けられない民主社会において、法的判断への公共的信頼を保全するための決定的な手段である。このように「後期」対話篇『法律』においては、プラトン「初期」において提示された吟味と探究の哲学が、けっして個人主義的なレヴェルにとどまることなく、国家という共生の場を媒介としつつ、「中期」のイデア論の哲学と結び合わされて、新たな公共性の哲学へと発展しているのである。


エウリーピデース作『メーデイア』のエクソドス

中山 恒夫

 メーデイアは、舞台裏で自分の子供たちを殺したあと、有翼の車に乗って上空に姿を現す。B.M.W.Knoxはエクソドスのメーデイアの台詞が他の作品のdeus ex machinaと共通のモティーフまたは文体から成る「神の言葉」であることを指摘して、その神化を証明した(YCS 25, 1977)。画期的な論文であったが、神化については疑問視する反論が多い。ただし反論の多くはKnoxほどに緻密な考察を積み上げた論証ではない。

 それでも言葉の分析のみによって神化という結論を出すのは早計であろう。台詞には視覚的要素も含まれるものであり、見えないものを見えるようにするのも台詞の機能である。視点を変えて、相違点をよく見れば、神化と決めつけられない姿が見えてくる。重要なのは、メーデイアが上空に現れたのを地上で見た人間の反応である。これには、現存するすべてのdeus ex machina(断片2篇およびソポクレースの『ピロクテーテース』を含む13篇)に共通する定型がある。それは、(1)神が名乗り、(2)人間がそれを神と認めて恭順の態度を示す、という定型である。

 ところが『メーデイア』では、(1)メーデイアは名乗らず、(2)イアーソーンは彼女を神と認めず恭順の態度を示さない。決定的である。そもそも、ヘーラクレースのように死んでから神になることでさえも、例外的にしか認めないギリシア神話の世界を舞台に載せる悲劇の上演で、生きたまま神になるということが説明もなしに理解されただろうか。

この定型の中で重要なのは、人間による神の認知であって、名乗りそのものは単独では決定的要素ではない。なぜなら、神であろうが人であろうが、初登場のときに、自己紹介するか他の登場人物によって紹介されるのは、ギリシア悲劇のしきたりであるからである。重要なのは名乗らないことである。それは今までと同じ人間メーデイアであることを意味する。イアーソーンもまた今までと同じ人間を見ているから、悪口雑言をぶつけてはばからない。変容とは顔と姿を変えることであり、顔と姿はマスクと衣装で表す。イアーソーンがメーデイアを見てすぐにそれと分かるのは、顔も姿も元のままだからである。メーデイア自身が女神であることを明言するか、あるいはイアーソーンが驚き畏れる叫び声を発するような台詞がなければ、変容していないと判断すべきである。

ではその人間がどうして「神の言葉」を話すのか。そもそもこのhomo ex machinaは失敗作であろうか、それとも新機軸であろうか。ここから先は推測になるが、エウリーピデースは辺境の異界から来て野蛮人として軽蔑され、魔女としていぶかしい目で見られている「差別された弱者」を使って、堕落したアテーナイの男たちよりも遥かに人間的な人間を創造したのではあるまいか。