古典学エッセイ

篠塚千惠子:表紙絵《ルドヴィシの玉座》(2021年10月掲載)に寄せて(その9)

 グァルドゥッチの解釈は筆者にはグッリーニの仮説よりもはるかに説得力があるように思われる。長年培われた鋭い観察眼と洞察力、溢れ出る学識、何よりも独特の確信に満ちた情熱的で率直な語り口が読む者をグイグイと引っ張っていく。だが、力作論文であることは確かだとしても、彼女が望んだように、《ルドヴィシの玉座》解釈の決定版となり得る論文かどうか? 決定版たることを阻む大きな壁が二つそびえていた。

 彼女の説は、マラサのイオニア式神殿をアフロディテ神殿とみなすプリュックナーの仮説を前提としていた(グッリーニもそうだった)。彼女はこの仮説を何の批判も疑念も示すことなく、あっけないほど素直に受け入れ、これを出発点として論を展開した。ごうごうと批判されたプリュックナーの説から20年近くが経過し、その間にチェントカメレ地区でのアフロディテ信仰の痕跡が見出されるなどしてプリュックナー説の見直し・再評価が始まっていた。グァルドゥッチ論文もグッリーニ論文も学界のそうした流れのなかで出されたものだったと言えよう。だが、肝心かなめの神殿遺跡自体は沈黙を守り続けていた。そこからはそれがアフロディテ神殿であることを直接的に、確実に明かす証拠は何も発見されていなかった。もしかするとマラサの神殿はアフロディテ以外の神に捧げられた神殿かもしれない、その可能性は決して失われていなかった。

 もう一つの壁は、言わずもがな、《ボストンの玉座》の存在である。《ボストンの玉座》が贋作であること、これが彼女の説のもう一つの前提だった。果たして彼女が確信するように贋作なのかどうか。もし贋作でなかったら、彼女の説は崩れてしまう。当然彼女はこのことを自覚していたから、すでに何年もかけて《ボストンの玉座》出現の怪しい経緯を調査した上でそうした結論に達したこと、近いうちにこの調査結果を公表する予定であることを表明していた。予告どおり、二年後(1987年)に彼女は《ボストンの玉座》贋作説を発表した(その4の文献2)。

 《ボストンの玉座》とその真贋論争については、筆者はすでに「その4」のなかで手短に概要を記している。表紙絵《ルドヴィシの玉座》のエッセイなのだから、それで(概要で)済むと考えていたのだ。浅はかな考えだった。私たちの表紙絵作品を正しく理解しようとするなら、《ボストンの玉座》の真贋問題は避けて通れない。これは《ルドヴィシの玉座》解釈の死活に関わる問題なのだ。ボストンの浮彫が真作であれば、それは否応なく《ルドヴィシの玉座》研究に侵入してくる。互いの関連性を探究し、とりわけ両者がどのように用いられ、設置されていたかを考えねばならない。贋作であるなら、《ルドヴィシの玉座》は影のようにつきまとう対作品の存在から解放され、いわば自分だけのことを考えればよい。だが、真贋の決着がつかなかったら?――《ルドヴィシの玉座》はいつまでも相手のことを意識していかなくてはならないだろう。その真の理解はいつまでも宙に浮いたままになるだろう。

 これまで筆者はややこしい問題を抱えた《ボストンの玉座》(以下、Bと略記)は脇に置いたままにして、《ルドヴィシの玉座》(以下、Lと略記)だけにひたすら眼を注いで、そこに表された浮彫場面の解釈とこの浮彫が本来置かれていた場所と考えられる南イタリアのギリシア都市ロクリを中心に書き綴ってきた。1894年秋にBがローマの古美術商の許に現れてから、Lはこの後発作品から完全に独立して解釈することはできなくなっていたにも関わらず、筆者はそれには眼を瞑ってここまで来てしまった。「その7」と「その8」で紹介したグァルドゥッチの解釈は、Lだけに集中した解釈の究極点と言えるかもしれない。しかし、ことここに至っては、眼を見開いて――方向転換して――Bの真贋問題と向き合わなくてはならない。

 筆者は1996年夏の終わりにBを見ている。場所はボストン美術館ではなく、イタリアはヴェネツィアのパラッツォ・グラッシ。ここでこの年、3月24日から12月8日まで、「西方のギリシア人I Greci in Occidente」と名うった大規模な展覧会が開かれた。貨幣などを含めれば優に二千点を越える展示品が広大なパラッツォを埋め尽くし、マグナグラエキア美術、シチリアのギリシア美術の代表作がほぼすべて一堂に会していただけではない、発掘されて未だ日も浅い話題作や、異文化交流による文化変容をまざまざと具現した異形の作品まで目白押しだった。イタリア考古学界の総力を結集した、まさに空前絶後と言ってよい展覧会だった(文献1はそのカタログ)。会場の一角にBは特別招待作品としてLと並んで展示された。それは日本の新聞にも取り上げられるほどの、この展覧会の目玉展示の一つだった(図1と補遺を参照されたし)。

 だが、他の目玉作品が次から次へと、これでもか、これでもかと現れてくる、驚きの連続する会場にあって、LとBのいわば「世紀の初顔合わせ」の前に佇んでばかりはいられなかった。旅先からだったが、会場に三度足を運んでも無駄だった。結局のところ、筆者にはこの「世紀の対面」に精神集中することができなかった。すでにグァルドゥッチの1985年の力作論文を熱中して読み、多少なりともロクリ関連文献も読破し、その勢いで早稲田大学の小研究会で「ルドヴィシの玉座とロクロイ・エピゼフュリオイ」と題した口頭発表までしていたというのに(1995年7月)。グァルドゥッチのBの贋作説も読んでいたというのに、Bをつぶさに観察することもしなかった。むしろ、この展覧会で初めて見た身震いするほど美しい大理石彫刻――《モテュエの青年》――の前で眼と心を注いでいた。帰国してからはこの彫像の研究に没頭していき(文献2)、いつしか小研究会での発表を活字化することもLのことも筆者の研究課題から抜けていった。――

 要するに、筆者のBの実見(autopsy)は「見ただけ」に終わった(実見した時の残骸といえば、かすかな眼の記憶と数行のメモのみ)。いったい、美術史研究において作品を実際に自分の眼で見ることは、どれほどの意味をもつものなのか? autopsyなくして作品研究はできないのか? 答えるのは難しい。美術史学の歴史を振り返れば、autopsy一辺倒ではなく作品研究をしていた時代があった。作品を実際に自分の眼で見て観察して作品研究をする、これは理想であって、実行はそれほど容易ではない。美術館・博物館が発展し、交通網が飛躍的に発達した現代とはちがって、一昔前は写真や石膏コピーで代用することが多かった。今でも、作品が遠隔地にあったり、個人コレクションに入っていたり、何か事情があったりする場合には、写真に頼らざるを得ない。

 おそらく、1987年のグァルドゥッチの贋作説は、その書きぶりから推して、Bを実見せずに書かれた。明言してはいないけれど、彼女は写真と精巧な石膏型取りコピーに依拠して書いたにちがいない(その4の文献2, p.61の註36にそのことが仄めかされている)。エリカ・ジーモンは1959年の著作(その2の文献1)では、Bを実見することなく真作として論じた。ジーモンはその後Bを実際に見て、その浮彫場面を解釈し直した(「その4」を参照)。実見した結果、ジーモンはBを真作であるとする見解を変えることはなかったが、それまでBの美術価値をLと同じとしていた見方を変え、Lの方が質的に優れていることを認識し評価した。

 意味深長なことに、真贋論争の贋作説論者たちの大半が依拠したのはautopsyではなく、精細な写真と石膏コピーだった。それに比し、真作説を唱える論者の多くはBを実見していた。autopsyを欠く前者はそのことで時おり婉曲に・・・批判された。真っ向からの批判ではないのは、先に述べたように、美術史学の研究ではautopsyと並んで写真や石膏コピーを使用するのが必要不可欠であり、慣例となっているからだ。それに、Bを論ずる初期の学者たち・・・・・・・は主にヨーロッパの、とくにドイツ系の学者だった。彼らにとって、当時のアメリカは未だあまりに遠隔の、色々な意味で新興国であり過ぎた。

 さらに、Bは1894年にローマに現れた時から美術商の許にあり、ごく限られた、一部の人間しかBに近づくことができなかった。2年後にはヨーロッパの博物館との争奪戦を制したコレクターにしてボストン美術館の買い付け代理人エドワード(ネッド)・ペリイ・ウォレンEdward Perry Warren(1860-1928)に買い取られ、すぐにイギリスの彼の邸宅ルース・ハウスLewes House(in Lewes, East Sussex)に運ばれた。一般の目から遠ざけられたままそこに滞留したBが大西洋を越えてアメリカ大陸に渡り、ようやく一般公開されたのは1909年、ボストン美術館ギリシア・ローマ美術部門館の柿落としの時だった。以来、Bはそこに鎮座し続け、1996年のヴェネツィアの展覧会まで再び大西洋を渡ることはなかった。

その10へ続く)

【補遺】

 図1の1996年3月30日付朝日新聞夕刊の切り抜きは、ローマ在住の美術史家佐藤康夫氏の執筆になる簡にして要を得た記事である。以下はその全文である。

 〈「植民」というと、強国の圧倒的な武力による一方的な征服を連想するが、ローマの制覇以前、地中海沿岸に栄えた古代ギリシャ人の「植民都市」は随分と趣を異にする。そこでは通商や抗争を経て、紀元前八世紀ごろから土着の文化との交流・融合が本格化し、ヨーロッパ文明の土壌が形成されていった。

 ベネチアのグラッシ宮で、二十四日から『西方のギリシャ人』展が始まった(12月8日まで)。ピタゴラスやアルキメデスが足跡を残すこのギリシャ植民都市に焦点を当て、造形美術を中心に、西方、とりわけ南イタリアとシチリア島におけるギリシャ文明の影響を、最新の研究成果に基づき提示している。

 本展はイタリア文化財省が、外国の二十五館を含む七十五の博物館の協力のもと、民間企業フィアットの文化機関パラッツォ・グラッシと連携し、三年かけて実現した。パラッツォ・グラッシはこれまでにもフェニキアやケルトに関する大規模な展覧会を開催。工夫された展示方法により、考古学を児童や一般市民にも近づきやすいものとし、古代文明展をひとつのトレンドにまで高めた実績がある。

 展示作品は、彫刻、壁画、つぼ、通貨、貴金属など大小二千余点。なかでも関心を集めるのは、イタリアから流出し、今回里帰りした作品。そのひとつ、大理石の『ボストンの玉座』は、ローマ国立博物館の有名な『ルドヴィーシの玉座』と初めて対面。共にひとつの祭壇を形成していたと推定されるが、両作品を巡って真贋論争が絶えないのも事実で、六月に開かれる専門家の会議での「判定」が注目される。このベネチア展と並行して、「植民都市」のあった南イタリア各地で同主題の展覧会が組織されている。異民族・異文化間の軋轢が絶えない今日の欧州にあって、この古代ギリシャ人の植民活動に相互交流の原形と欧州の文化的共通項を探るのが本展のライトモチーフといえそうだ。〉(下線は筆者)

【文献】

  1. I Greci in Occidente, ed. Giovanni Pugliese Carratelli, Bompiani,1996(英語版:The Western Greeks. Classical Civilization in the Western Mediterranean, ed. Giovanni Pugliese Carratelli, Thames and Hudson, 1996)
  2. 2. 篠塚千惠子「モテュエの青年」『アルゴナウタイ―福部先生に捧げる論文集』アルゴ会 2006年:133-197

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図1: 1996年3月30日付朝日新聞夕刊の記事を筆者が切り抜いてスキャンしたもの

篠塚千惠子