古典学エッセイ

篠塚千惠子:表紙絵《ルドヴィシの玉座》(2021年10月掲載)に寄せて(その3)

 ロクリに最初の科学的・・・発掘の鍬が入れられたのは1889年晩秋のことだった。いにしえのマグナ・グラエキアの都は今や夢の跡、キリストさえもエーボリより南部には踏み入らなかったと言われるほどのカラブリアの人跡稀なこの僻地にも、夢の跡を非合法的に掘り返す者がすでに現れていた。盗掘品は闇ルートで古美術商に流れ始めていた。統一して間もないイタリア王国がロクリの発掘者に任命したのはこの後マグナ・グラエキア並びにシチリア(シケリア)の考古学史に不朽の名を残すことになるパオロ・オルシ(1859-1935年)だった。だが、共同発掘者がもう一人いた。あのオイゲン・ペーターセン(1836-1919年)である。この時オルシは弱冠30歳、イタリア考古学界期待の新星。ペーターセンは2年前にアテネのドイツ考古学研究所所長の職からローマのドイツ考古学研究所所長職に異動してきたばかり。《ルドヴィシの玉座》研究に必須の基礎文献(その1の文献2)はこれより3年後にものされる。

 二人が発掘を開始した場所は、ロクリの海岸寄りのマラサと呼ばれる地区だった(図1の地図を参照)。すでにペーターセンはそこに神殿跡があることを事前調査で把握し、僅かな痕跡を実見しただけでサモス島のヘラ神殿との類似性をもつクラシック時代のイオニア式神殿であることを見抜いていた(文献1)。イタリア政府が在ローマドイツ考古学研究所の代表者を発掘に招くことになった経緯は詳らかではないが、おそらく若きオルシの補佐とこの神殿の研究促進のためだったのだろう。ペーターセンとしては自らの研究所チームを指揮して発掘を手がけたかったにちがいない。古文献の記述から豊かな古代文化財の埋蔵が期待されるロクリは、ドイツ古典考古学界の垂涎の地だった(ドイツだけではなかったろうが)。たとえば――これは後で再び触れることになるのだが――、ハイデルベルク大学は1907年にイタリア政府にロクリの発掘を正式に申請した(文献2, p.XI)。このドイツの名門大学は、早くから古美術商に流出していた《ロクリのピナケス》(以下《ピナケス》と略称)の収集に力を入れていた。ロクリの発掘申請は《ピナケス》の研究を目的とするものだった。だが、イタリア政府はこの申請を許可せず、発掘を再びパオロ・オルシに委ねた。1908−13年の調査でオルシは誰も予測していなかったほどの成果を挙げた。ロクリ内陸部の奥深く、マンネッラの峡谷でペルセフォネの聖域――ディオドルス・シクルス(27.4,2)やリウィウス(29.18,4)の記述で知られる聖域――を突き止め(図1の地図を参照)、奉納品埋蔵坑から「ハデスによるペルセフォネの略奪」(図2)や「玉座のペルセフォネとハデス」(図3)など種々の場面の表された厖大なピナケス断片を掘り出したのだ(文献3)。それらはその後の《ピナケス》研究にとって汲めども尽きぬ資料となった。

 ローマでの責任ある業務に追われていたペーターセンがマラサ地区の発掘に携わったのは短期間でしかなかった。しかし、オルシとの共同作業は目覚ましい収穫をもたらした。神殿は三分の一程度の基礎部、一本のイオニア式円柱の下部と柱頭の一部を残すに過ぎなかったが(図4)、前5世紀の周柱式イオニア式神殿であることが明らかになり、さらにその下にアルカイック時代の神殿が建っていたことも判明した。また、神殿西正面を飾っていたパロス産大理石の対となる彫刻二体――トリトンに支えられた馬から今まさに飛び降りんとする二人の裸体の青年像――も発見された(図5-6)。この遺跡は長くマグナ・グラエキア及びシチリアでの唯一のイオニア式神殿趾として有名になるものだが(現在ではシラクーサ[シュラクサイ]、メタポント[メタポンティオン]、ヴェーリア[エレア]にもイオニア式神殿趾が確認されている)、残念ながら、碑文史料の出土がなかったために、この神殿が誰に(どの神に)捧げられたものか知ることはできなかった。

 ペーターセンは発掘成果を直ちに(1890年に)自身が主宰する研究所年報に公表した(文献4)。その周到綿密な報告書には、神殿遺跡の精密極まる見事な測量図が3点掲載されていた(文献4のFig.4, 7, Taf.VIII)(図7)。それらは晩年のシュリーマンのトロイア発掘の若き協力者としてすでに国際的な名声を得ていたヴィルヘルム・デルプフェルト(1853-1940年)の手になるものだった!ペーターセンは、彼の後任として在アテネドイツ研究所所長を兼務しながらトロイア発掘を続けていたデルプフェルトを、マラサの神殿の正確な測量と研究深化の助言を得るために呼び寄せたのだった。ロクリのマラサの遺跡で束の間邂逅したオルシ、ペーターセン、デルプフェルト。何という巡り合わせ――。ペーターセンが程なく執筆する《ルドヴィシの玉座》論文にマラサの神殿はむろん登場しない。誰が知っていただろう、半世紀以上の時を経た後に、このイオニア式神殿がアフロディテ神殿と解釈され、《玉座》の設置場所として有力視されるようになることを。

 マラサの神殿と《玉座》を結びつける解釈に一挙に進む前に、《玉座》と《ピナケス》の結びつきを見ておかなくてはならない。ロクリを《玉座》の故郷とする説は両者の様式的類似が出発点だった。両者の結びつきを逸早く強調したのがイギリスの学者バーナード・アシュモール(1894-1988年)である。1922年の短いながらも示唆と含蓄に富む論文(文献5)において、彼は《ピナケス》との様式的類似を強調するだけでなく、宗教的類似も見出すことによって、《玉座》の故郷としてふさわしいのは、それまで出されていたシチリアのエリュクスやキプロスのパフォスといった場所ではなく、この南イタリアのギリシア都市なのだと主張した。エリカ・ジーモンと同じように(というよりも彼女よりも先に)、彼は《玉座》中央の女性の身体の一部を隠しているあの布(「その2」の図1)に宗教的意味――秘儀性――を認め、《ピナケス》にしばしば現れる儀式用の聖なる衣との共通性を見てとった。《ピナケス》では、聖衣のモティーフは広げた状態で少女たちによって運ばれたり(図8)、折り畳まれて供物卓の上に置かれたり、櫃に収められたり(図9)、また、坐した女神への奉献場面(図10)などさまざまな場面に現れていた。

 アシュモールはこの時は未だ《玉座》主面をアフロディテの誕生場面と見なす解釈をとっていなかった(後に考えを変えるのだが)。彼が参照した《ピナケス》の作例は主としてオルシの発掘報告書(文献3)に公表されたものだった。それらはマンネッラのペルセフォネの聖域から出土したものだったから、聖なる衣の現れるピナケスの場面はペルセフォネと関連するものとみなし、《玉座》の場面も、断定はしないまでも、ペルセフォネの着衣儀礼と関係する場面なのではないかと推測した(文献5, p.252)。

 オルシの公表した《ピナケス》は彼が発掘した何千点にも及ぶ《ピナケス》断片のごく一部でしかなかった。彼は1909年の報告書(文献3)は予備的なものに過ぎず、後で正式の詳細な報告書なり研究書なりを出すつもりだった。無数の細片の再構成と種々さまざまな場面の分類だけでも途方もない時間を要した。それでも彼はその予備的報告書においてできる限りのことをした。オルシならではの先入観を排した徹底的な事実観察に基づくピナケスの分類と図像解釈の試み。《ロクリのピナケス》とは一体どんなものなのか。いくつもの断片をつないで再構成してみれば、人物の彩色浮彫表現をもった矩形ないしほぼ正方形の小さな陶板、高さ30cmを越えるものは滅多になく、厚さは1cm以下、陶板上縁に見られる一つか二つの孔から、本来建物の壁や境内の樹木に吊り下げる形で奉納されていたことが知れる。つまり大理石彫刻のような豪華な奉納品なのでは毛頭ない、粘土に浮彫装飾を施して焼いた廉価な大量製品、庶民のささやかな奉納品。それなのに、多種多様な浮彫場面は何と神秘的な美しさを秘め、何と複雑難解なことか。単純に冥界の女王ペルセフォネへの信仰を示す場面と解釈してよいものかどうか。オルシがそれまで知っていたペルセフォネ図像からかけ離れたものがあまりにも多かった。そのほとんどが前5世紀前半に年代づけられ、それ以降の例は希にしか発見されなかった。オルシの推測によれば、前5世紀半ば頃に祭儀形式ないし奉納形式が突如変化し、そのため、役を終えたこれらのピナケスは儀礼上意図的に壊され、大きな坑にまとめて埋められた(文献3, p.480)。

 マンネッラの厖大な発掘品はシチリアの考古文化財監督官としてすでに活躍中だったオルシと共にシラクーサに移された。しかし、いくつもの重責を負ったオルシに《ピナケス》の体系的研究に取り組む時間が与えられることはなかった。1933年シラクーサ考古局を辞する時の迫ったオルシは、自ら発掘した《ピナケス》のすべてをパオラ・ザンカーニ・モントゥオーロ(1901-87年)に委ねた。パオラの夭逝した夫が《ピナケス》研究を目指していたという因縁だけでなく、アテネのイタリア考古学研究所に在籍していた彼女の古典考古学徒としての類い稀な資質を見通してのことだったにちがいない(文献6, p.XIVに基づく筆者の推測)。ロクリの際立って特殊な宗教を解明する鍵を握る莫大な資料は「オルシの遺産」として、幾多の障害を乗り越えてようやく1932年に開設されたレッジョ・ディ・カラブリア国立考古学博物館(この設立を企図し、実現に砕身努力したのもオルシだった)に保管が決まり、ここがザンカーニ・モントゥオーロの《ピナケス》研究の場となった。

 パエストゥム近郊セーレ河口のヘライオンHeraion del Foce del Seleなど重要なマグナ・グラエキア遺跡の発掘調査で中断することはあっても、彼女の《ピナケス》研究はその長い生涯の最期まで続いた。ロクリのピナケスに特有の制作技法を明らかにし、浮彫場面をおよそ176の類型に分類し、主題的に10のグループに分けるところまで到達した。彼女はそうした自らの研究成果の過程をその都度論文に発表し、レッジョ・ディ・カラブリア博物館の「ロクリのピナケス室」の展示に反映させていたが、集大成となる体系的書物は遂に刊行されず、「オルシの遺産」の全容は未公表のままに終わった。〈彼女は真の天賦の才によって莫大な断片の山に精通し、それらを体系化し、それらの接合や再構成を多くの作例で成し遂げ、しばしば思いもよらない造形的且つ主題的関係を特定した〉(文献7, p.41)。いつまでも果てしなく無限に続くジグソーパズルとの戦い(文献7, p.41によればピナケス断片は5000点以上)。その空白部分の多くがたった一人の、際立って明晰な頭脳と抜群の記憶力を行使する眼によって再構成された。だが、オルシをして戸惑わせた複雑で多様な浮彫場面をどのように解釈すべきか。場面が再構成されていけばいくほど、通常のペルセフォネの神話から、そのイコノグラフィーからの逸脱が顕著になり、他にはみられないロクリ独特のペルセフォネ祭儀の様相が現れてきた。驚くことに、エレウシスの秘儀とは異なり、そこにはほとんどまったくデメテルが現れなかった。ハデスの存在も薄かった。むしろ結婚適齢期の乙女たちの守り神であるかのように、ペルセフォネは乙女たちによって供物を献上され、祭儀が執行されていた(図8-10)。

 分けてもザンカーニ・モントゥオーロを当惑させたのは、僅かとはいえ、明らかにアフロディテを表したピナケスの存在だった。すでにオルシが発掘する前からマンネッラの峡谷で秘密裡に掘り出され形成されていたイタリアの個人コレクション(カンディーダCandidaコレクションが中でも有名)や、国外に流出していた《ピナケス》のなかにはそうした作例が存在し(図11)、注目されていた。「その2」の図8に取り上げた、エロスと少女の引く車に乗るアフロディテとヘルメスが表されたピナクスも、もともとカンディーダ・コレクションにあったものだ。保存の良い作例が多く含まれたこのコレクションは国外流出を避けるために、オルシその他のイタリア人考古学者たちの要請の下、国家買い上げとなり、早くからターラント国立考古学博物館に保管されていた。アシュモールはすでに先の論文のなかで、この作品を根拠にして、マンネッラの聖域ではペルセフォネだけでなくアフロディテも信仰されていた可能性を指摘した(文献5, p.252)。

 ザンカーニ・モントゥオーロはこの可能性にきわめて慎重だった。だが、やがて彼女は長い年月をかけ考え続けてきた一つのピナクスの細片接合パズルを解くのに成功し、ペルセフォネの聖域におけるアフロディテの浸透――彼女によれば、その浸透は弱いものだったが――を認めた。接合復元に成功したそのピナクスは1964年の彼女の論文に公表された(文献8)。それは《ルドヴィシの玉座》と《ロクリのピナケス》との結びつきを決定的にするようなピナクスだった。そこには海からのアフロディテの誕生が表されていた!

 画面中央に二つの大きな波頭に乗って現れた小さな少女(図12-13)。両側から二人の女性が少女を迎えようとする。右側の女性は少女に向かって両腕を差し出し、少女も女性の方を向いて両腕を差し出す。左側のほぼ正面向きに立つ女性は少女のために布を広げる。

 以下は、この表現と《玉座》主面のアフロディテの誕生(表紙絵)との本質的な一致を洞察したザンカーニ・モントゥオーロの論文の一節である。

 〈三人物のこの構図――すべての関心とすべての配慮が中央の最も低い頭部に集中する構図――は《ルドヴィシの玉座》との直接的対比を呼び起こす。海への暗示――《玉座》では両側の小石、ピナクスでは中央の波――、広げられた布、そして何よりも進行中の奇蹟の魅惑が、大理石の輝かしい彫刻とロクリの職人芸の陶板浮彫に共通している。《玉座》では女神はすでに大人だが、彼女を生み出した自然元素に浸ったまま、今現れつつある。ピナクスでは幼い女神は完全に姿を現し、向かい合う波の屹立によって上に押し上げられる。奇蹟は海の湧き立ちとともに瞬時に成就された。一方が現れつつあり、他方がすでに現れていても、意味は変わらない、同じなのだ、海という申し合わせが同じであるように。……《玉座》にもピナクスにもエロスが欠けている。アッティカ陶器画のアフロディテ誕生図像とは異なるこの一致は、イタリオータイの特徴を確認させてくれる。芸術レベルは相違しても、二つの作品のあいだには何かもう一つの神韻が共通しているように私には思える。それは同じようにリボンを巻き、髪を額から肩へ垂らしたアフロディテの頭部。〉(文献8, pp.394-395[省略を交えての翻訳])

その4へ続く)

【文献】

  1. E. Petersen, Sitsungsprotocolle, in Mitteilungen des Deutschen Archäologischen Instituts: Römische Abteilung, 4, 1889:342-343, 345
  2. H. Prückner, Die lokrischen Tonreliefs. Beitrag zur Kultgeschichte von Lokroi Epizephyrioi, Mainz am Rhein, 1968
  3. P. Orsi, Locri Epizefiri. Resoconto sulla terza campagna di scavi locresi, in Bollettino d’arte, 3, 1909:406-428, 463-482
  4. E. Petersen, Tempel in Lokri, in Mitteilungen des Deutschen Archäologischen Instituts: Römische Abteilung, 5, 1890:161-227
  5. B. Ashmole, Locri Epizehpyrii and the Ludovisi Throne, in Journal of Hellenic Studies, 42, 1922:248-253
  6. I Pinakes di Locri Epizefiri. Musei di Reggio Calabria e di Locri, eds. E.Lissi Caronna, C. Sabbione e L. Vlad Borrelli, Parte I, Società Magna Grecia, Roma, 1999
  7. L. Vlad Borelli, C. Sabbione, Santuari a Lokri Epizefiri: I pinakes locresi della Mannella, in I Greci in Occidente. Santuari della Magna Grecia in Calabria, Electa Napoli, 1996:40-42
  8. P. Zancani Montuoro, Persefone e Afrodite sul mare, in Essays in Memory of Karl Lehmann, ed. L. Freeman Sandler, New York, 1964:386-395
  9. Magna Grecia. Puglia, Basilicata, Calabria: colonie greche e romane villaggi brettii e lucani Guide archeologico, Touring Club Italiano, Milano, 2007
  10. Megale Hellas. Storia e civiltà della Magna Grecia, eds. Giovanni Pugliese Carratelli ed altri, Milano, 1986
  11. Locri Epizefirii. Atti del sedicesimo convegno di studi sulla Magna Grecia, Taranto, 3-8 ottobre 1976, Napoli, 1977

0
図1: ロクリの遺跡地図 黒の実線と破線が古代の市壁と推定される位置を示す。マラサ地区の神殿は赤の楕円枠で囲った部分Santuario di Marasaにあり、マンネッラのペルセフォネの聖域Santuario di Persephone(赤の楕円枠の囲み部分)は内陸奥地の市壁のすぐ外にある[文献9, p.74]

0
図2: ハデスによるペルセフォネの略奪 彩色陶板浮彫(ロクリのピナクス) 前460年頃 ロクリ出土 レッジョ・ディ・カラブリア国立考古学博物館 [文献10, fig.462]

0
図3: 玉座のペルセフォネとハデス 彩色陶板浮彫(ロクリのピナクス) 前460年頃 ロクリ出土 レッジョ・ディ・カラブリア国立考古学博物館 [文献10, fig.470]

0
図4: ロクリ、マラサ地区のイオニア式神殿跡 東から眺めた西側部分。左の枯れ木の横に見えるのがイオニア式円柱の下部[1980年11月16日筆者撮影]

0
図5: トリトンに支えられた馬から飛び降りる青年(ディオスクーロイの一人と推定)二体のうちの保存良好の像で、頭部は1956年に発見(1955-59年にマラサ地区でAlfonso De Franciscisが行った発掘の際) 大理石 前5世紀末頃 ロクリのイオニア式神殿西正面から出土 レッジョ・ディ・カラブリア国立考古学博物館 [文献10,fig.446]

0
図6: トリトンに支えられた馬から飛び降りる青年(ディオスクーロイの一人と推定) 多くの断片をつないで補修 大理石 前5世紀末頃 ロクリのイオニア式神殿西正面から出土 レッジョ・ディ・カラブリア国立考古学博物館 [文献10,fig.447]

0
図7: デルプフェルト作成のイオニア式神殿址の平面プラン[文献4, Taf.VIII]

0
図8: 聖衣奉納行列 彩色陶板浮彫(ロクリのピナクス)復元図 前460年頃 ロクリ出土[文献11, tav.VI下図]

0
図9: 櫃に収められる聖衣 彩色陶板浮彫 (ロクリのピナクス) 前460年頃 ロクリ出土 レッジョ・ディ・カラブリア国立考古学博物館[文献10, fig.465]

0
図10: 女神への聖衣奉献場面 彩色陶板浮彫 (ロクリのピナクス) 前460年頃 ロクリ出土 レッジョ・ディ・カラブリア国立考古学博物館 [文献10, fig.466]

0
図11: アフロディテ、エロス、ヘルメス 彩色陶板浮彫 (ロクリのピナクス) 前460年頃 ロクリ出土 ミュンヘン州立古代蒐集館 [文献2, Taf.1,1]

0
図12: アフロディテの誕生 彩色陶板浮彫(ロクリのピナクス)断片群 前460年頃 ロクリ出土 レッジョ・ディ・カラブリア国立考古学博物館[文献8, fig.4]

0
図13: アフロディテの誕生 彩色陶板浮彫(ロクリのピナクス)復元図 前460年頃 文献8, fig.7]

篠塚千惠子