古典学エッセイ

篠塚千惠子:表紙絵《ルドヴィシの玉座》(2021年10月掲載)に寄せて(その1)

 表紙絵にとりあげられているのは一つの大理石ブロックから彫られた三連浮彫の主面の場面である。左右に幅の狭い翼部が奥へ突き出ており、そこにも浮彫が施されている(図1-2)。主面の上部――おそらく三角形の破風のような形をしていた部分――が欠損しており、下部の両端の半月形部分を飾っていたと思われる装飾も、両翼部の下部の半月形の装飾も失われている。

 一見して、何と奇妙な形をした彫刻なのだろうと誰もが思うにちがいない。一体何のために作られ、どのように使われたのか。この彫刻が発見されたのは1887年の夏、ローマのヴィラ・ルドヴィシの敷地においてだった。17世紀より古代彫刻の蒐集で名を馳せた名門貴族ルドヴィシ家のヴィラの広大な敷地は、古代ローマの歴史家サルスティウス(前86-前34年頃)の名高い庭園Horti Sallustiani があった場所にほぼ該当していた。発見の報がその年のローマ考古学委員会会報に載ったとき、報告書の題名は「サルスティウスの庭園で・・・・・・・・・・・・最近発見された風変わりな・・・・・彫刻モニュメント」というものだった(文献1)。発見から5年後(1892年)、当時ローマのドイツ考古学研究所所長だったオイゲン・ペーターセンがこれをアルカイックからクラシックへの過渡の様式を示す前470年頃の浮彫で装飾された玉座・・と解釈した(文献2)。以来「ルドヴィシの玉座」と呼ばれ、玉座説が否定された後も慣例のごとくこの呼び方が今日まで使われ続けている(この作品が置かれているローマ国立博物館アルテンプス宮殿の現在の展示室はSala del Trono Ludovisiであるし、文献3に挙げた2011年刊行の公式カタログの作品解説の作品名もTrono Ludovisiとなっている。本稿でも便宜的にこの通称名で呼ぶことにする)。つまり、未だに、発見から135年経っても、数多の研究が積み上げられ、「これこそ実像か」と思わせられる説が出ても、別の仮説が現れ、その繰り返しで、これが何であったのか、今もって明確な答が得られていない。

 それもこれも、本来の文脈から断絶した場所で発見されたことがネックになっている。ローマでギリシア彫刻が発見されるということは、ギリシアを征服した古代ローマ人がギリシア本土から、あるいは南イタリアおよびシチリアのギリシア都市から運んできて、ローマで再利用したことを意味する。再利用ないし第二の用途についてはある程度推測がついた。サルスティウスの庭園はこの著名な歴史家の死後、皇帝一族の所有に帰した。選り抜きのギリシアの美術品がこの庭園に集められていたという。従って、ごく普通に考えるなら、この《玉座》はサルスティウスが造園を計画したとき、もしくは皇帝の手に渡ったときに庭園を飾るために運ばれてきたことになるだろう。一体、どこから?

 実はペーターセンの長文の論文には《玉座》の故郷についても瞠目すべき考察がなされていた。文献学の該博な学識と小アジアやアテネ、オリュンピアなどの遺跡調査の豊かな経験を有していた彼ならではの鋭い洞察。リウィウス(30.38; 40.34)その他の古文献の記述をとおしてサルスティウス庭園からほど遠くないポルタ・コリーナにウェヌス・エリュキナエ神殿が鎮座していたことが知れる。この女神の神域が創建されたとき(前181年)、この玉座は本社であるシチリアのエリュクスのアフロディテ神域から運ばれてきてウェヌス祭儀に奉仕し、後にサルスティウス庭園に移されたのではないか。

 そうなのだ、ペーターセンこそ《玉座》主面の主題をアフロディテの誕生と解釈した最初の学者だった。パウサニアス(5.11.8)が伝えるフェイディアス作ゼウスの黄金象牙像の台座に表されていたアフロディテの誕生と比較しながら、《玉座》浮彫に表された海から上がる女神を迎えるのがヘシオドスの詩のようにエロスではなく、二人の女性であることから、彼は、ホメロス風讃歌のアフロディテ讃歌第六番に歌われる女神の誕生が主題とされていると考えた。そして左翼部(図3)の二本笛を吹く裸体の若い女性をヘタイラないし神殿娼婦ἱερόδουλος(エリュクスのアフロディテ神域にいたという神殿娼婦たちを彼は想起した)、右翼部(図4)のキトンの上にヒマティオンを頭からまとって香を薫く若い女性を花嫁として解釈した。そして、これら裸体と着衣の対照的な女性像のうちにアフロディテのアンビヴァレントな二面性――パンデモス的側面(俗愛)とウラニア的側面(聖愛)――の具現を見てとった。その後の《ルドヴィシの玉座》研究の基礎となった緻密で透徹したペーターセンのモノグラフは「アフロディテ」と題されていた。

 おそらく濱田耕作(青陵)からこの浮彫の名声を耳にしていたか、ないしは濱田が訳したミハエリスの『美術考古學発見史』(文献4)を読んでいたかしたのだろう、和辻哲郎はドイツ留学中にイタリア古寺巡礼をしたとき、ローマのテルメ美術館にこの作品を見るために何度か足を運んだ。〈いわゆるルドヴィチの王座《ヴィナスの誕生》などはその中でも[テルメ美術館の中でも]また一番美しいものである〉([ ]内は筆者の補足)、〈見るたびに何ともいえない味が出てくる。何と言ってもローマ第一等である〉と絶賛し、読み応えのある貴重な作品記述を書き残した(文献5, p.62)。テルメ美術館設立は1911年のことだから、和辻のこの1928年1月の鑑賞文は、日本における《ルドヴィシの玉座》鑑賞文の早い例ではないだろうか(テルメ美術館の変遷については補遺を参照)。和辻は「王座」の前に「いわゆる」を冠しているから、王座でないらしいことは知っていたようだが、浮彫主題についてはごく当たり前のように、それが定説であるかのように、「ヴィナスの誕生」としている。

 しかし、実のところ、現在ほぼ定説となっている「アフロディテの誕生」という解釈は、1928年の時点では欧米の古典考古学の領域では未だ諸手を挙げて受け容れられていたわけではなかった。ペーターセン以後長く、20世紀半ばを過ぎてもなお、浮彫の主題だけでなく、このモニュメントの異例の形状とその用途についてもさまざまな説が出され、議論が続いた。主題については、女神の出産の場面だとする説、女神の沐浴の儀式とする説、いや生身の女神ではなくその彫像の沐浴儀式なのだという説、ペルセフォネの地上への回帰の場面とみなす説、等々。用途については、地面に掘られた儀式用の穴を囲う柵ないし欄干のようなものと考える説、石棺とする説、祭壇の装飾のためのものだったとみなす説など(文献6, 7, 8)。

 ただ、この浮彫の様式と年代に関しては、完全にクラシック様式になりきっていないアルカイック様式の要素を残した前5世紀前半の様式(いわゆる厳格様式)、それもアッティカやペロポネソスの作風ではなく、エーゲ海島嶼のイオニアの作風もしくはその影響が色濃いマグナ・グラエキアの作風ということで研究者たちの意見はほぼ一致していた。そして、いうまでもなく、一致していたのはこの浮彫の不思議な美しさについてだった。(その2へ続く)

【寸法】(文献9, p.21の表に基づく)
 主面:下部の幅1.42m上部の幅1.33m 右隅の高さ0.86m 左隅の高さ0.835m
 翼部:右翼下部の幅0.705m 左翼下部の幅0.705m
    右翼上部の厚さ0.115m 左翼上部の厚さ0.115m
浮彫の平均的高さ0.06m

【大理石の産地】
文献6と8ではギリシア島嶼の大理石と記載されていたが、その後分析調査が進んだと見えて、文献3ではタソス島のVathy岬近くの石切場から切り出されたドロマイト混交の大理石marmo tasio dolomiticoと記載されている。

【補遺】
 本作はローマのヴィラ・ルドヴィシの敷地の一角(現在のvia Piemonte, via Abruzzi, via Boncompagni, via Siciliaのあいだ)で発見された後、同家のコレクションに加えられた。折しもルドヴィシ家が財産処理を始めた時期に当たり、古美術商や外国の美術館から派遣された作品購入代理人たちの暗躍が繰り広げられるなか、文化財の国外流出を防ぐ国策としてルドヴィシ・コレクションは国家買い上げとなる(1901年)。1911年にディオクレティアヌス帝の浴場跡にローマ国立博物館が開館、同館(テルメ美術館と通称された)展示の中核を形づくったのがこのコレクションだった。だが、収蔵品が増大し続けたためにローマ国立博物館は三館に分かれることになり、20世紀末には本作は他の旧ルドヴィシ・コレクションの作品群とともにナボナ広場に近いアルテンプス館に移った。古色蒼然とした古代遺跡利用の展示室から、ルネサンスの貴族の邸館 の名残りを留める瀟洒な展示室へ。以前は間近に自由に見られたのに、今は綱が張られ、この浮彫彫刻の周りをぐるりと巡って鑑賞することができなくなった。

【文献】

  1. C. L. Visconti, Un singolare monumento di scultura ultimamente scoperto negli Orti Sallustiani, in Bulletiino della Commissione Archeologica Comunale di Roma, 15, 1887:267-274
  2. E. Petersen, Aphrodite, in Mitteilungen des Deutschen Archäologischen Instituts: Römische Abteilung, 7, 1892:32-80
  3. Palazzo Altemps: le collezioni, Ministero per i Beni e le Attività Culturali Soprintendenza Speciale per i Beni Archeologica di Roma, Milano, 2011:195-197(M. De Angelis d’ Ossat)
  4. 濱田耕作訳『ミハエリス氏美術考古學發見史』 雄山閣出版1990年(1927年の復刻版)
  5. 和辻哲郎著『イタリア古寺巡礼』岩波文庫 2015年 第29刷(1991年第1刷)
  6. E. Paribeni, Museo Nazionale Romano. Sculture Greche del V secolo. Originali e Repliche, Roma, 1953
  7. Enciclopedia dell’Arte Antica, vol.VII, s.v. Trono di Ludovisi, Roma,1966:1020-1022(E. Paribeni)
  8. Museo Nazionale Romano. Le Sculture, I,1, ed. A. Giuliano, Roma,1979:54-59, n.48(D. Candilio)
  9. M. B. Comstock, C. C. Vermeule, Sculpture in Stone. The Greek, Roman and Etruscan Collections of the Museum of Fine Arts Boston, Boston, 1976:20-25 no.30
  10. 『世界の美術館7ローマ美術館』講談社 1967年

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図1: 《ルドヴィシの玉座》右翼パネルと主面 前460年頃 大理石 ローマ国立博物館アルテンプス宮殿inv.8570[2012年3月28日筆者撮影]

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図2: 《ルドヴィシの玉座》発見を報じた報告書の図版 図中の4番は裏側から撮られた珍しい写真[文献1, tav.XV.XVI]

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図3: 笛を吹く女性 《ルドヴィシの玉座》左翼パネルの浮彫[文献10の図版42]

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図4: 香を薫く女性 《ルドヴィシの玉座》右翼パネルの浮彫[文献10の図版41]

篠塚千惠子