古典学エッセイ
安西眞:プーチン大統領と「魂の世話をすること」
私が,東京の大学に行くために出た故郷(香川県坂出市)に帰って来たのは,結局, 離郷後55年目でした.帰郷の本当の理由は,決して不仲ではなかったのに,それほどの長きにわたってまとまった話をする時間を持てなかった3つ年下の弟と「積もる話」がしたかったからではないかとこの頃は思っています.いろんな事情があって,東京暮らしにいつどうやって決着を付ければよいか,そのことばかりを考えていた私に,ある日,その郷里にいる弟から,命懸けの手術を受けなければならないことになった,との知らせが来,しばらく経ってから,手術は一応の成功とともに終わり,何とか危機は乗り越えことができ,それで「しばらくは娑婆にいられるらしいです」と結ばれた短い電話を彼からもらった時,その決着はついたからです.引っ越しが無事終わり,故郷での生活が始まって以降は,坂出市を流れる綾川の土手に近いいくつかの喫茶店で「モーニング」を前に,川を眺めながら,あるいは川に沿って並ぶ山々を眺めながら,2人の共有する少年時代の思い出や,これからのことや,もうとっくにこの世とは縁のきれた,母や,父や,義母についての思い出話などをしながら,故郷で死を待つ日々が始まりました.
その楽しかるべき彼とのおしゃべりが一つの話題で占められてしまうようになりました.言うまでもなく,プーチンがウクライナ侵攻にゴーサインを出してからです.
ですから,中務さんが, 短い文とYouTube動画閲覧の勧めをこのHPに載せた時,すぐに,「じゃ,私も続報を」,と名乗り出てしまいました.この軽さを後悔することになるとは思いもせずに.ぼくら兄弟がプーチンについて並べた言葉は,所詮,気心の知れた者同士の間で交わされる言いたい放題の会話の中においてか,あるいは誰にも見せることのできない個人的な日記の中においてだけ発することのできるもので,とうてい,このHPのブログで文字にできるものではなかったのです.このことは,このブログとは少々違うタイトルを持つ,ブログの最初の版を書き始めてすぐに解りました.
そういう訳で,ここでは,現在世界が当面している危機に関する,そういう言いたい放題ではなく,西洋古典哲学に関してはまったくのシロウトである私が,古典哲学のシロウトとして,日頃思い悩んできたことについて,幼い見解を披露して,嗤われることを第一の目的とすることにします.「私も」と軽々と手を上げたことに対する一種の罰です.
プラトンによる対話篇でのソクラテスが,前途有望な青年たちに勧める生き方の中に「魂の世話をする」生き方があります.ずっと永い間,このプラトンの対話篇で頻用される言葉の具体的意味を私はあまり良く理解できないでいました.おそらくプラトンを平均的な日本語訳読者として読んでおられる方の多くは私と似た状況にあるのではないかと思います.「魂」って何だ.その魂の死後における存在って何だ.それが永遠に存在するってどんなことなのだ.こういう平凡な疑問ですが,多くの日本人と私はこの疑問を共有していると思います.でも,一方で,ソクラテスは結局のところ自分自身の魂を「世話する」ために,あのような弁明演説をせざるを得なかったし,自死を選択する他なかったのだ,という信念だけは,これは誰かと共有している訳ではないな,という確信もありますが,しかしその確信のことは無視して話を進めていきます.ソクラテスの言う「魂の世話をする」とは具体的にこれではないか,と思われる一例に会ったと思った瞬間を私は持っています.数年前のことです.東京で開いていた,小さな古典語教室で,プラトン『ゴルギアス』を塾生たちと読んでいた頃のことです.対話篇の登場人物であるカㇽリクレスが,自分は,自分に先行した対話者たち(ゴルギアス,ポロス)が恥ずかしがって真実を言えなくて醜態を晒したと信じる.自分はその轍を踏まない,という宣言とともに始めるこの作品の最終部分(ソクラテスVSカㇽリクレス)にそれはあります.ソクラテスの対話相手を彼より先に務めたのはポロスですが,そのポロスが称えた,当時のアテナイの青年たちの人気の的でもあった,マケドニアの支配者アルケラオスの生き方こそが人間という存在が目標にすべき,最も自然で最も優れたもので,この支配者が示している「不正なる幸せ者」としての,肉体的欲望を第一の充足目標とした生き方こそ我々が選択すべき生き方なのだと後を受けたカㇽリクレスも結論づけた時,ソクラテスは彼に向かっておおよそ次のような比喩的な表現を使って,その生き方を否定し.それとは反対の生き方を取るように勧めます.
肉体的欲望と同居する魂は,いわば肉体の欲望に従わされ,魂として変質してしまっているので,死んだのと同じである.その魂の持ち主である我々自身も同様な状態にあることになる.しかも,肉体の欲望というものは充足不能であるけれども,魂は死んでしまっているので,その魂の持ち主は,ある瞬間,自分の欲望が充足されたことを信じることもできないし,記憶することもできないのだ.つまり漏水手当のできていない穴だらけの甕で,黄泉の国で穴の空いた甕で水を汲み運ぶという永遠の徒労という劫罰を受けているダナオスの娘たちのように,欲望を実現した液体をただ目の荒い甑を通すごとくに嚥下するだけの人生を送ることになるのだ.このような形で,人生を充満もキリもなく過ごす代わりに,今目の前にあるもので魂が充足を感じる秩序だった人生に切り替えることが君にはできないのだろうか?それとも,もし仮に他の比喩を使って説得を続けてもそれは君には通用しないのだろうか?
いつもとは違ったソクラテスの説得ぶりだが,カㇽリクレスは,無理みたいだ,通用しないらしいと答える.(以上,Gorg. 492e-493d)しかし,青年カㇽリクレスへの説得は対話編内では成功しなかったが,「魂の世話をする」ということの重要な実例が,ここには実現されていると私には思えるのだ.
プーチン大統領は,ウクライナ侵攻軍に進発命令を下した際,その決定を下した理由を,公式的には2つあげた.ひとつはNATO軍の東進に対抗する為にウクライナ国を緩衝地帯として維持したいという理由.もうひとつは,東ウクライナに国家を建設しようとしている2つのロシア人グループがウクライナ人たちによってジェノサイドに遭っている.それを救うためもあるというものである.2つ目の「公式理由」は比較的よく知られた「ロシア的侵略」と原理的には同じである.私は司馬遼太郎さんの本からその「ロシア的侵略」のことを教えられた.その方法とはこういうものである.コサックとかウクライナ人とかという,ロシア内での「異民族的」分子たちを周辺国家のどこかに送り込んで定住するように仕向ける.送り込まれた者たちと,侵略目標たる周辺国家の住民との間には摩擦が当然起きる.送り込まれた者たちは「母国」ロシアに救助を要請する.ロシア軍は窮状にある「送り込まれた者たち」を救う救援軍として,その周辺国家あるいは地域に侵攻する大義名分を得る,とともに怒涛の進軍が開始されるという方式である.司馬さんはロシア史の専門家ではない.その司馬さんが知っていて本に書いたということは,世界中のひとがロシアのこの侵略のための常套手段のことは知っている,ということである.これに反して「緩衝地帯」という理由づけはちょっと難しい.ウクライナ共和国のゼレンスキー大統領が今味わっている政治家としての「幸福」への嫉妬・怒りが根本にあるのだ,という解説を聞いたことがあるが,そのとおりかもしれない.ただ,この「緩衝地帯」の獲得といういくらか意表をついた侵略の為の口実に,私には古典の専門家としてひとつ心当たりがある.
カエサルのガリア戦記第6巻に,ゲルマン人の社会についての著作家からの報告があるが,それにこういう一節がある.「ゲルマン人の間では,一つの部族が,自分達の領地の周りに,周辺の部族の居住地を後退せしめて無人地帯を作ろうとする傾向が認められる.そしてこの無人地帯の幅あるいは奥行きが広くなればなるほど,その無人地帯に囲まれて居住する部族へのゲルマン人一般の敬意は大きくなる」(ガリア戦記,6. 23. 1 {意訳}).カエサルの報告する,ゲルマン人による無人地帯の創出と,プーチン大統領の言うウクライナの緩衝地帯化は,2000年の時を隔ててはいるが,全く無関係ではないと私は思う.カエサルの報告するゲルマン人も,現代のロシア人も広大な大地に極めて小さな人口密度をもって居住していて,しかも自分達の軍事的栄光に誇りを持っているひとたちである.特にロシア人は,自分達の領土の荒涼とした広大さを武器に,ナポレオンの軍隊もヒットラーのも打ち砕いて来たという絶大な自信を持っている.ウクライナをNATOの東進を堰き止める緩衝地帯に!という彼の設定した目標は,ロシア人に対して,あるいはロシア人の中の,侵攻をめぐる大統領の決断を支持している者たちに向けての,仲間同士の間での密かな目配せであり得,軍事国家としてのロシアへの栄光の過去へ向けての大統領の「施政方針演説」たり得ると私は思う.
現在,トルコで和平に向けての条件を詰める交渉がなされている.でも,そんな条件交渉などをして,将来の再侵略の可能性を残しておく必要などないだろうと私には思える.ソクラテスの説得を聴き入れて,大統領が「魂の世話をする」生活に日常を変えれば,その上でロシアの民衆にも,自分に倣ってその「魂の世話をする」生活へと転向すべし,との教書を出しさえすれば,大統領が決して口にしようとしていない大統領自身の秘めやかな侵略のための動機の実現を含めてすべては一挙に解決し,大統領は人類がけして忘れてはならない,人類史の偉大な貢献者になれるのに,と私には思える.人間の肉体が生じさせる欲望のことを,特に領土的な征服欲のことを歴史家トウキュディデスは,プレオネクシア(もっと所有したいという欲)と名づけ,西洋古代で最も優れた都市国家アテナイを滅ぼした主因(シケリア遠征)そのものとして見ていたことは間違いない.アルキビアデスのシケリア遠征提案に市民たちをして賛成票を投じさせた当の理由こそ,市民たちの胸に巣食ったプレオネクシアであり,これこそがアテナイ議会に誤った議決をさせ,結局この優れた都市国家を滅ぼした病そのものだと歴史家が確信していたに違いないことを私は確信している.