アナクシメネースにおける説得の技術―EIKOSをめぐる考察―
堀尾 耕一
中世の写本伝承においてアリストテレースの著作として扱われてきた作品群のうちに、よく知られた『弁論術』とは別の、冒頭部にアレクサンドロス大王宛ての偽書簡を付された弁論術書が伝えられ、その作者は今日では一般に前4世紀の修辞学者アナクシメネースと考えられている。本発表は、この著作において「聴衆を説得する手立て(pisteis)」のひとつとして規定されるeikosという概念について、アリストテレースのそれと比較し、その修辞学史的な意義を検討する試みである。
古典期のアッティカ弁論術においてeikosというギリシア語が聴衆の説得に関わるひとつの中心的概念を担うものであったことは、すでにプラトーンの『パイドロス』における批判的言及からもうかがことができる。弁論術を弁証術との対比において構想するという課題を師から継承しつつ、アリストテレースはこの言葉に、弁論術的推論の前提となりうる命題(トポス)のもつ「蓋然性」という意味を与えている。一方、アナクシメネースによるeikosの理解にあっては、いわばより実践的・実用的な観点から、語られる事柄についてそれを聴衆が「もっともなこと」だと受け取るかどうかが問題にされる。哲学者のものに比べていかにも相対主義的なこの定義は、実際の法廷弁論作品にしばしば見られるeikosに関係する表現に、むしろ親近性を持つことが指摘できる。
両者の比較を通して、アリストテレース弁論術における論証的な説得の在り方が、あらためて浮き彫りとなるであろう。キケローによってラテン世界に受け継がれ、以降に展開する古典修辞学の性格を大きく方向づけることになる説得の論証的な枠組み、およびその前提命題としてのトポス(=locus)の在り方に対して、それを相対化しうる視点を提供する意味において、アナクシメネースは修辞学史のうえで特異な位置を占める存在である。
アリストテレスの国制変革論
半田 勝彦
アリストテレスは『政治学』第II巻第7章で、内乱を回避するために市民の財産を平等にすることを提案するパレアスの国制論を批判している。その批判によると、内乱は、財産ばかりでなく名誉の平等・不平等をめぐっても起こり、さらに、他人よりも多くのものを求める欲望も、内乱を引き起こす大きな原因となる。だから内乱を回避するには、財産の平等化よりも、欲望に適切に対処しなければならない。人間の欲望にはきりがないから、単なる平等な配分では、上流階層も一般大衆も満足させることはできないというのである。
他方、国制変革や内乱について詳しく論じられている第V巻では、内乱の一般的で主要な原因は、平等性に関する誤りであるとされ、その対策として、数的平等と比例的平等との併用が提案されている。しかし欲望は、内乱や変革の原因として挙げられていない。これはII. 7の所論とは異なるし、最近では、国制変革の原因として不平等よりもむしろ欲望(プレオネクシア)を重視する解釈も出されている。もしVで提案されている国制の維持保全策が、人心の欲望に対する有効策を欠いているとしたら、II. 7でパレアスに向けられた批判が、Vのアリストテレス自身の国制変革論にも当てはまることになるだろう。
恐らくVではアリストテレスは、欲望が関与する内乱や変革を、欲望の問題として直接取り上げることはせずに、別の仕方でこれに対処しているように思われる。すなわち、極端を避けて混合によって適度をもたらすという混合の理論に基づいて、人々の過大な要求を抑え、内乱や変革を規制し予防しようとしているのではないかと見られる。果たしてアリストテレスがうまく対応できているかどうかを見極めるために、Vで提案されている国制保全策を中心にして、アリストテレスの国制変革論を再検討してみたい。
前5世紀アッティカ碑文の文法・正書法の変化に関する検討
師尾 晶子
前5世紀のアッティカ碑文は、デロス同盟の研究にとって重要な史料である。だが、多くの碑文は断片的であり、たとえ完全な形で発見されようとも、われわれが理解できる形式での記録年月の記載がなく、その刻文年代の同定にあたっては多くの研究者を悩ませてきた。1980年代まで、刻文年代推定のために最も有効な手がかりだとされてきたのは、碑文の字体であった。とりわけ、顕著な字体変化を見せるsigmaについては、1860年代には早くも、前440年代半ば以降、古体の使用が廃れ、古典的な字体に移行したことが注目された。以来、sigmaとその他同様に顕著な字体変化の見られる文字の字体に基づいて、碑文の刻文年代が推定されるようになり、 1961年以来、Mattinglyによって繰り返し批判されようともその信頼性が揺らぐことはなかった。しかし、 1990年にsigmaとrhoの古体が用いられた「エゲスタ決議」(IG I3 11)の刻文年代を前418/7年に引き下げる決定的証拠がChambersらによって発表されると、近年のヘレニズム・ローマ時代のギリシア語碑文の研究の進展ともあいまって、字体のみに基づく年代決定法の絶対性が根底から覆されることとなった。以来、今日までの前5世紀のアッティカ碑文学とデロス同盟研究とは、まさに混沌の中にあると言える。
本報告では、このような状況下にある前5世紀のアッティカ碑文について、碑文の正書法と文法の変遷についての検討が、刻文年代の推定に有効な手段となりうることを提示する。さしあたり、IG I3所収の公的碑文が対象とされる。その際、私的碑文や陶片と比較するとともに、これまで包括的にしか扱われてこなかった民会決議碑文、会計文書、戦没者記念碑など、碑文の性格による比較分析も行う。検討に際して、1)気息音の記載と省略、2)イオニア式正書法の混入とその度合い、3)碑文全体のレイアウト、4) 公文書の保守性、に特に焦点を当てる。
プラトン『国家』における《意欲すること》の諸相
高橋 雅人
プラトンの『国家』第二巻の冒頭で、正義はどのような善いものなのかをグラウコンが問うたのに対して、ソクラテスは正義とは「幸せになろうとする者が、それ自体のためにも、それから生じる結果のゆえにも、愛さなければならないようなもの(II, 358a)」だと答える。このソクラテスの答えはグラウコンによる善きものの分類と微妙に異なっている。すなわち、グラウコンは「われわれ」がある善いものをそれ自体のゆえにもそれから生じる結果のゆえにも愛するという「事実」を述べているのに対して、ソクラテスは「幸せになろうとする者」が正義をそのようなものとして愛さなければならないという「要請」を述べているのである。「知恵をもつこと」や「ものを見ること」などが言わば「自ずから」欲求されるのとは違って、正義という善いものは幸福への意欲とともに、ある意味での必然性を帯びつつ意欲される(愛される)のである。
このことに着目すると、魂の三部分説は人が何を意欲するのかの解明には必ずしも有効ではないのではないかと考えられる。なぜならば、三部分がそれぞれどのような固有の「欲望」を自然本性的に持つのかということと、人が現にどのような人として何を意欲するのかということとは、別のことだからであり、そしてまた魂のどの部分が支配するかによって人はどのような人として何を意欲する(愛する)のかが決まるからである(VIII, 580d-581e)。言うまでもなく、魂のどの部分が支配するかどうかは自然本性によって決まることではない。それは何らかのロゴスの採択ないし受容によるのである。
本発表は、一つの全体として生きている人の意欲がいかなる仕方で成り立つのかを、『国家』八-十巻を主なテキストとして解明することを目指す。そしてそれによってグラウコンの問いに対してソクラテスが微妙に異なった仕方で答えたことの意味を探ってみたい。
『アエネイス』第五巻の「トロイア競技祭」の意義について
山下 太郎
本発表においては、『アエネイス』第五巻の「トロイア競技祭」の意義について、詩人の作品構想との関連で考察する。
この競技祭はアンキセスのために奉納された一連の競技の最後に紹介されるものであるが、その叙述にかんして注目すべきは、少年たちによる見事な騎馬隊列の様子が詳述される中、(1)ローマの歴史や(2)ギリシア神話への言及に加え、(3)アエネアス個人の経験への言及が行われる点である。(1)にかんしては、ローマの血統への言及、とりわけ、アウグストゥスによる 「トロイア競技祭」復興が暗示されている。(2)については、いわゆるアリアドネ・エピソードが紹介されている。(3)にかんしては、アスカニウスのまたがる馬がディドの贈り物─ディド自身の思い出、愛のしるし(572 suiノノmonumentum et pignus amoris)─と表現される点に注目したい。
また、先行する競技においては競技者によって勝敗が争われたのに対し、この騎馬行進の叙述は周囲を取り囲む観衆によって「見られるもの」として、いわゆるエクプラシス的要素を含む点も注目に値する。
これらの表現上の工夫は、結局のところ何を意味するのか。ローマの歴史への言及について、単に「皇帝へのリップサービス」(ロウブの注など)と解する限り、アエネアス個人の思い出が「トロイア競技祭」の中で言及される意味が見えなくなる。本発表では、上述の(1)〜(3)の分析をふまえ、「トロイア競技祭」の叙述の中にローマの歴史全体を描こうとする詩人の作品構想を読みとろうとする。
その際、詩の中で語られる過去、現在、未来の扱いに注意を払うこととする。それは同時に、他の巻における事例との比較を伴うものとなる。たとえば、第一巻の「ユノの神殿の絵」、第六巻冒頭の「扉絵」、同巻末の「英雄のカタログ」、第八巻の「盾の描写」など、いわゆる「エクプラシス」と呼ばれる技法の分析が有力なヒントを与えると期待される。
正義の学び−プラトン『ゴルギアス』篇 459c6-461b2−
野村 光義
弁論家ゴルギアス(Grg.)を対話相手とする『ゴルギアス』篇第一部は、その結尾(459c6-461b2)において「弁論術を学んだ弟子が弁論術を不正に使用することがある」という Grg. の主張がソクラテスによって論駁されるという構成になっているが、その対話問答の際、Grg. が承認する命題「正しいことを学んだひとは正しいひとである」(460b6-7) は、吉田雅章以外の論者たち(ドッズ、アーウィン、カーン、村上学)によって問題のある命題であるとされてきた。そこで本発表においてわたくしは、吉田を導きの光として、第一部結尾の対話問答の議論構成を明らかにし、論駁を形成する、この命題と「正しいひとは正しいことをするひとであって、正しいことをすることを望む」(460b8-c6)という命題の対話問答における意味と身分を考察し、もってそれらを擁護したい。
すなわち、前者の命題を問題視する論者たちは、この命題が、正しいことを学ぶということが成立するかぎりにおいて措定される「正義の知」が「知」(460b5)であるからには満たすべき「正義の知についての文法的命題」として対話者たちに了解されているということを見逃しているのである。そして技術知も「知」であるからには「技術知についての文法的命題」を満たすのである。これに対して、後者の命題は技術知に関しては成立しない、正義(もしくは徳)固有の命題であり、「正しいひと」と「正しいこと(行為)」の関係を述べたものである。言い換えると、技術知を学んだひとが正しいことをする必然性がその技術知のありかたから帰結しないのに対し、正義を学んだ正しいひとが正しいことをし、正しいことをすることを望む必然性は正義のありかたから帰結するのである。したがってそれらは、正義の「何であるか」をきめているわけではないにせよ、正義の「相」をさだめているのである。
ギリシア美術における「地方・都市の擬人像」の誕生─神話から寓意へ─
篠塚 千恵子
アルカイック時代の初め頃、叙事詩やオリエント美術の影響によって美術にも神話が表されるようになると、美術独特の造形言語による物語表現形式が探究されていく。抽象的概念や自然現象を人間の姿で表した「擬人像」はそうした探究の過程で生み出され、後世の西洋美術の図像伝統の基礎を形づくった。ここでとりあげる「地方・都市の擬人像」は、抽象的概念を表す擬人像の登場が比較的早いのに対し、クラシック時代になってから現れ、ヘレニズム時代に図像の定型が確立する。その定型は多く城壁冠をかぶり、手に豊饒角や麦の束などを持った着衣の女性の姿をとり、都市の運命を司る女神テュケと同一視されることもある。ローマの属州の擬人像などヘレニズム以降のこの種の擬人像には概して政治的寓意が含意されている。
本発表では、これまで詳しく論じられることの少なかったクラシック時代の「地方・都市の擬人像」に焦点を当て、何故この時代にこうした擬人像が生み出されたのかという問題意識の下に、主としてアテネの陶器画と碑文浮彫の表現からそれがどのような場面にどのような形姿をとって現れ、どのようにヘレニズム時代の定型へつながっていくかを考察する。定型までの流れを要約すれば、「神話物語による政治的ほのめかしから純然たる政治的寓意へ」となる。こうした流れの背景に、ペルシア戦争からペロポネソス戦争を経てマケドニアの征服までのこの時代のギリシア人の自己を取り巻く世界の認識の変化、ポリス間の政治的関係の変化があったことはいうまでもない。まさにこの変化は他のどこよりもアテネの政治に顕著に現れ、その美術にも深い影を落とした。政治的寓意を含んだ「地方・都市の擬人像」がアテネでもっとも入念に熟考され、後世の原型ともなる表現が生み出されたのはそのためなのだといえよう。このことを上記の視覚史料を中心に検証してみたい。
ガリエヌス帝の騎兵軍改革について
井上 文則
3世紀のいわゆる軍人皇帝時代のローマ帝国史は、ゾシモスやゾナラスといったローマ時代より遥か後世のビザンツ時代の史料に大きな信頼をおいて復元されてきているが、これらの史料には、ガリエヌスの治世(253-268年)にはいると、hipparchosやhipparchonといった騎兵と関わりのある官職の名がしばしばみられるようになる。そして、これらの官職にはアウレオルスやクラウディウスといった当代の軍人が就いていたとされる。近代の研究者は、主としてこれらギリシア語史料の記述を基に「ガリエヌス帝の騎兵軍改革」なる仮説を立てた。ガリエヌスは、打ち続く蛮族の侵入や簒奪帝に迅速に対応するために皇帝直属の中央騎兵軍を創り出し、それをイリュリア人に委ねた、彼らイリュリア人はそれを足掛かりに帝権を窺い、ガリエヌスの死後、続々と帝位に就き、ローマ帝国を軍事的危機から救い出した、と。この仮説は、アルフェルディA. Alfoeldiによってひときわ強く主張され、長らく通説として受け入れられてきたが、近年、中央騎兵軍の存在を否定するジーモンH. G. Simon等による痛烈な批判にさらされており、大きく揺らいでいる。
学説史を追っていくと、その論争の焦点が、「騎兵軍改革」を論ずる際のキーパーソンであるアウレオルスをめぐるギリシア語史料とラテン語史料の解釈の違いにあることが分かる。本発表は、この点を追求することを手がかりに、騎兵軍改革の実態を考察し、そこから進んで3世紀後半におけるローマ帝国軍制の状況の一端を明らかにしようとするものである。結論としては、中央騎兵軍そのものよりも、それを構成していたとされる個々の騎兵部隊の重要性を指摘し、さらに、これらの騎兵部隊創設が3世紀の軍制全般の変化と密接に関連していたことを論じる。展望として、4世紀の後期ローマ帝国の軍制との関わりについても言及したい。
「アンティキュテーラのイアーソーン」
羽田 康一
1900-01年および1976年に発見・陸揚げされたアンティキュテーラの一括出土品のうち、大型ブロンズ彫刻についての私見を述べる。いわゆる「アンティキュテーラの青年」「アンティキュテーラの哲学者頭部」(アテネ国立考古博物館、Inv. 13396, 13400)その他断片である。
まず彫刻を除く一括出土品の検討から、積載船の沈没年代は前70-65年頃に位置づけられる。積荷の一部は小アジア西岸地域に由来すると見做され、大理石彫刻の積載地としてはデーロス島が想定される。
「哲学者頭部」の特徴はアンティステネースとクラーテースの肖像に見出され、同じくキュニコス派に属する哲学者を表していると考えられる。制作年代は前3世紀後半ないし前2世紀前半に置かれる。足と腕しか残らない他の彫刻とともに肖像群像を構成していた可能性がある。
「青年」の制作年代は前340-330年頃と推定される。意味としてはポーズ、および両手の形と持物に関する比較例の検討から、「球技の勝利者」「ゴルゴネイオンを持つペルセウス」「林檎を持つパリス」「ヘスペリデスの園で木から黄金の林檎をもぎ取るヘーラクレース」のいずれでもなく、「木に懸かった金羊皮を取るイアーソーン」と考えられる。
積載船は第三次ミトリダテース戦争後、おそらくリキニウス・ルークッルスの配下の者がローマに向かう途中で難破したと考えられ、キュジコス、エーフェソス、デーロス、キュテーラ沖、メッシーナ海峡、プテオリーないしオスティア、という航路を辿るはずだったと推定される。
発表では「青年」の意味と、積載船をめぐる状況の推論に重点を置く。意味推定の方法は厳密な実証的手続きに加え、発表者がこれまで「アンドロメダー」「イーオー」「メリケルテース」の図像史に関して適用してきた「形と意味の系譜的把握」という図像学上の考え方である。
プラトン『国家』第五巻におけるgnome、gnosis、episteme
高木 酉子
「知識」と「思わく」の関わるものの峻別をめぐる、プラトン『国家』第五巻475e3-480a13におけるイデア論導入の議論においては、「知られる」ものとしての「ある」ものに対応させられるgnosis(Gと略)は、議論上「知識」が「思わく」とともにひとつの能力として言及されるときには、episteme(Eと略)の語に取って替わられる。対話相手とされる見聞愛好者にとってはGとEの使い分けは意味を持ち得ないであろうという想定からにせよ、議論中の両語の区別に特に意味を認めない解釈が多い。しかしプラトンにおいてEとは、techneやGをカバーする、より広い内包を持つ語であり、Gと単純に互換的であるとは言えないのではないか。
本発表では、「(G1)知識は成立可能であり、(G2)何らかの知識の対象が存在する」ことが同意されるGの議論部分(476c-477a, 478b-480a)と、「異なる能力は異なるものに関わり、知識と思わくはそれぞれ異なる能力である」という了解に基づくEの議論部分 (477b-478a. 478d7, 9のEは477b1への言及にすぎない) の間の、議論構造の推移に注目したい。それにより、「ある(esti)」の読み方と連動するかたちで五巻の「知識」が、直接知あるいは命題知のいずれかで統一的に理解されなければならないとする諸解釈者の前提が、無条件には受け入れられないものであることを示したい。とりわけ、(G1)、(G2)の同意を、イデアを認めない見聞愛好者だけではなくイデア論者も認めうる同意として理解すべきであるとすれば、そしてその場合、知識の客観性あるいはイデアの客観性への同意が、必ずしも感覚界における知識の成立の同意をも意味するわけではないとすれば、Eの議論のうちにGの議論を安易に組み込ませる諸解釈においては、Eはともすれば人間的な知として捉えられ、人間知と対立するものの視点が見失われるであろうということを論じる。
『アテナイ人の国制』第9章第1節のephesisの意味
―ソロンによる民衆裁判所創設説に対する再検討の手がかりとして―
清 宮 敏
前6世紀初頭の改革者ソロンが、古典期アテナイを代表する裁判所である民衆裁判所の原型をつくった、そして、それは公職者の裁判権を犠牲にして発展していった、というのが有力説になっている。
この説は、アリストテレスの『アテナイ人の国制』の構想に則っている。すなわち、前7世紀末以前の時代、公職者の筆頭であるアルコンたちは裁判における最終決定権をもっていた(同第3章第5節)。しかし、ソロンが民衆裁判所へのephesisを設けたので、民衆裁判所は発展を遂げた(同第9章第1節)。これに対して、アルコンたちは裁判における最終決定権を失い、予審をおこなうのみになった(同第3章第5節)。ここでは、アルコンたちと民衆裁判所との勢力交替の転機となったのが、(民衆裁判所の創設とともに)ephesisの設置だとされている。
しかし、私はこの構想には疑問を感じている。そこで、この構想の1つの要であるephesisの意味を問うことによって、これが妥当なのかどうかを検討したい。私見によれば、ここでのephesisは、上訴的なものを意味するであろう。ところで、古典期アテナイの公職者が裁判で通常果たした機能は、前掲の個所にあるように、訴訟を受理した後に予審をおこなうことであり、そして、それを民衆裁判所へ送付してそこでの審理を形式的に主宰し、その評決結果を判決として宣告することであった。従って、件の構想によれば、ソロンが上訴的なものを認めた結果、公職者の固有の裁判権は徐々にこのようなものに転化していった、ということになる。しかし、私はこれはありえないだろうと考えている。アリストテレスの構想は少なくともこの点では破綻していると思う。
アリストパネス『蛙』の蛙についての一考察
荒 井 直
アリストパネス(以下Ar.)の『蛙』でコロスを形成するのは「秘教入会者(たちの冥府での群)」である。蛙は劇の冒頭で60行ばかり、いわゆるparachoregemaとして、その役割を果たすに過ぎない。しかしAr. がこの場面を重要視していたことは間違いないと思われる。なぜか。その「冥府行」にあたって先達ヘラクレス(以下H.)に助言を求めたディオニュソス(以下D.)は、その旅程で、(1)広大な湖を渡航し、(2)怪物と遭遇し、そして(3)糞尿汚物にまみれた亡者たちを回避した後はじめて、冥府での案内者たる秘教入会者の男女と邂逅できる旨を聞き出す。それらは逐一実現するのだが、「冥府行」のとば口にあたる(1)における蛙についてはH.の助言に何の言及もなく、渡航直前に渡守カロンが示唆するのみであって、D. にとっても観客にとっても「不意打ち的な場面」とAr. はしているからである。
ところが、この場面のいくつかの点について、解釈者の間に意見の一致が見られるとは言い難い。たとえば、舟は舞台上を移動したのか、オルケストラの中を移動したのか。蛙は、サブのコロスとはいえ、それなりの扮装をしてオルケストラに登場したのか、その声のみがスケーネーの背後から聞こえたのか。D.と蛙の間には何らかの「張り合い」があるらしいのだが、どういう種類の「張り合い」で、なぜD.が勝利したと言えるのか。そもそも、なぜ蛙なのか。こうした問題について、当該場面のテクストと演出、『蛙』が踏襲している「冥府行」という枠組み、Ar. の他の喜劇におけるコロスとの比較などを考慮に入れながら、できる限り『蛙』という喜劇に内在して、再検討を試みたい。さらには、このD.と蛙の「張り合い」、D.とクサンティアスとの拷問に対する「我慢比べ」、アイスキュロスとエウリピデスの「アゴーン」の場面におけるD.の葛藤の関連なども瞥見したい。
それから?−『クレイトフォン』とその先への問い
三嶋 輝夫
「ソクラテス、あなたはまだ徳を求めることの重要性がわかっていない人間にとってはこの上なく貴重な存在だけれども、既にその獲得に向かおうとしている人間にとっては、徳を極め幸福になることを阻む邪魔者も同然と言わざるを得ないだろう」とのクレイトフォンのソクラテス批判の要諦は、ソクラテスによる徳の勧め(プロトロペー)がまさに勧め以上の何ものでもないことの指摘にある。その議論に含まれる幾多の欠陥(正義についてのポレマルコスの見解とソクラテスの見解の取り違えなど)にもかかわらず、その批判に「妙に肺腑を抉る」(井上忠)ものがあるとすれば、それはGrubeなども指摘するように、我々がプラトン初期対話篇を読んで感じるある種の欲求不満をクレイトフォンが代弁してくれている側面があるからであろう。そしてまさにプラトン『国家』第二巻以降の内容は、この「グラウコンの挑戦」ならぬ「クレイトフォンの挑発」に対する一つの回答とも見なしうるものである。
本発表においては、クレイトフォンの批判の概要を簡単に一瞥した上で、先ずテキスト内部の問題として、批判の正当性と不当性を検討し、また初期対話篇におけるソクラテスの側からする反論の可能性について探る。次にテキスト外、テキスト間の問題として、書かれた時期と真偽問題に触れてみたい。執筆時期については言及される人物と議論の内容から見て、『国家』第一巻と第二巻の間の可能性が高いと考える。真偽問題は、偽作説から真作説へと「回心」したとされるSlingsでさえいまだに揺れているように見えるように、極めて困難な問題ではあるが、論者としてはプラトンが同名の人物を『国家』第一巻の議論に立ち会わせるとともにシャープな発言をさせている事実から見て、真作の可能性はかなり低いと考えている。