日本西洋古典学会第53回大会研究発表要旨
アリストテレスにおける決定論の問題
上 田 徹
アリストテレスの哲学のなかに決定論的な傾向が認められることはつとに指摘されてきた。彼は決定論の反駁をおこなっていると考えられているが、どのような方法によってかは必ずしも明瞭ではない。その理由は、大きくわけてふたつあると思われる。それらは、(1)アリストテレスが偶然性や可能性の概念を理解しようとするとき、彼自身がそれらの概念の哲学的な説明の根底に置くのは、論理的・概念的必然性であるが、決定論者の議論にもそのような必然性は含まれており、不可避的にアリストテレス自身の立場と共通する側面を持ってしまうこと、(2)彼自身が、事実の実現に対して最近の可能性と現実性は事実的に同一であり、内的な関係に基づく論理的必然性をもつという様相理解に立っていることの二点である。問題となるテクストは「形而上学」Ε巻3章、「命題論」9章などである。
そこでとくに問題となるのは、アリストテレスがどのような観点から「説明」の成立を考えているのかということである。まず、Met.Ε3の議論について検討する。この箇所は従来、因果的決定論の論駁と考えられてきた。しかし、彼が原因の系列の連鎖がそこで終わると考える「付帯的な原因」は、常にでも、多くの場合にでもなく生ずる「偶然的なこと」であり、物理的必然性に基づく因果連鎖を断ちきる議論にはなっていないともとれる。だが、その場合の彼の論点は、形相が自体的原因であることであり、物理的必然性に対し、形相の同一性に基づく概念的必然性に優位を与えているのだということを明確にしたい。つぎに、Met.Θのメガラ派の批判、 Int.9の「海戦論」の読解を通じて、アリストテレスが論理的・概念的必然性を擁護する立場から決定論者の反駁をおこなっていることを確認し、アリストテレスが決定論者の議論の反復を多くおこない、決定論に荷担してしまっているような印象を与えてしまった理由に対して、彼の哲学から内在的に解答を与えてみたい。
共和政期ローマにおける予兆と支配意識
比 佐 篤
古代地中海世界における啓示的な現象として、最も代表的なものはデルポイの神託に代表される神々の預言であろうが、その他に予兆prodigiumが挙げられる。予兆とは何らかの出来事の前触れと見なされた天変地異や怪異現象であり、共和政ローマにおいては不吉な事件の前兆と見なされ、それに対する贖罪の儀式が元老院によって実行されるのが通例であった。
予兆は信仰や祭儀と関連する現象であるため、宗教史や祭儀に関連する神官職を扱う国制史の分野で研究されることが多い。しかし、予兆に対する贖罪は、都市ローマで生じたものだけではなく、ローマ国家の勢力圏内で生じたものについても、元老院の主導で実行されていたことから、予兆の検証は共和政期の政治史・外交史研究にとっても重要な課題であると思われる。
そこで本発表では、共和政ローマにおける対外支配の意識の変遷について、この予兆を元に論じることを試みる。予兆と贖罪に関する言及は、前3世紀末から史料に頻出し始め、前2世紀を通じて毎年のように言及されている。すなわち、予兆と贖罪の実行が増加した時期は、ローマがイタリア半島外部に進出し始める時代と重なっているのである。ところが、ローマ国家が地中海世界全体への直接的な関与をより強めていく前1世紀半ばを過ぎると、逆に予兆への言及はほとんど史料に現れなくなるのである。
こうした史料の状況をさらに立ち入って分析することによって、共和政ローマが公職者や使節を地中海世界全体へ頻繁に派遣していた実態と、ローマの支配者層全体の対外支配の意識との間に齟齬が存在していたことが確認されると共に、外部に領域を拡大しつつも都市国家の制度を保ち続けた共和政ローマの本質の一端が明らかになるのである。。
ウェルギリウス『アエネーイス』における「非情」
−Saeuissima Iuno nec minus Aeneas saeuus−
高 橋 宏 幸
Aeneis の序歌は,IunoのsaeuitiaがAeneas に苦難(labores)を強いる,という構図を提示する.作品前半の物語展開はこの提示に即しており,それは,laborという語がAeneasの担う苦難として頻用されることに端的に現れる.対して,作品後半では,イタリアでの戦争の火種を播くIuno について序歌と対応するようにsaeua(7.287, 592)と言われながら,戦争のlaborはトロイア,イタリア両軍に共通であり,とりわけ,その中心的担い手はTurnusであるように表現される.その際,Turnusを最終的に死へと追いやるAeneas,また,Iuppiter の神意もsaeuusと語られる一方で,Turnus自身にとっての labor, saeuitiaは敗北や死というより,むしろ,自身のuirtus 発揮の機会を奪われることである.この点で,Turnusを救けようとするIunoやIuturnaの画策は,救命というより一時的延命策にすぎず,それらこそTurnus にとっての labor, saeuitia である(12.635; cf. 10.678).本発表はこのよ
うな視点からTurnusに対する最大のsaeuitiaの場面として作品の結末を再検討する.
結末場面についてはAeneasの行為の当否を問う議論が盛んだが,本発表では,詩人の表現の主眼は,むしろ,Turnusの嘆願が命乞いを意図しなかったにもかかわらず,Aeneas がその意図を理解しなかったことにある,すなわち,Turnusは敗北を認め,彼のdeuotioが自身の率いた民の幸福をもたらすよう願ったのに対し,それをAeneasは姑息な延命策の一つであるかのように考えた,という誤解がここに描かれているという見方を提起する.この誤解にもとづくAeneasの「復讐」はTurnusから「名誉の死」を奪い去っていること,そして、このTurnusの「汚名」は,Iunoの「和解」に示されるLatiumの「名前」の存続と対比を形づくりつつ,ローマ建国の苦難の新たな始まりとして表現されていることを論じてみたい.
テュレアティスをめぐる諸問題
古 山 正 人
本報告はスパルタ史を再検討する一環として、スパルタとアルゴスの境界に位置し、スパルタにとって重要なペリオイコイ地域であるとされたテュレアティスとそれを含むキュヌーリア地方の動向をたどろうとするものである。
前540年代半ばにスパルタとアルゴスの間で戦われた「勇士の戦い」以前、アルゴスはスパルタに対して優位に立っていたという見解がスパルタ-アルゴス関係を見るときの通説である。この見解を支える文献証拠が、アルゴスがペロポネソス半島東海岸沿いにキュテラ島まで領有していたというヘロドトスの記事 (1.82) と、アルゴスがヒュシアイでスパルタに勝利したというパウサニアスの記事(2.24.7)であり、アルゴスのヘライオンが前8世紀末にアルゴスによって境界神域として建設されたという考古学的知見である。
しかし、近年の考古学研究の成果をふまえた J. Hall 等の所説によりながらアルゴリスの全般的情勢を俯瞰すると、ヘロドトスの記事、あるいはヘライオンがアルゴスの建設になるという見方は否定されるであろう。ヒュシアイの戦いの史実性、そしてフェイドンがアルゴス側の指揮者であったという見方、さらにスパルタは敗北を受けてギュムノパイディアイを創設したという見方にも大きな疑念がある。結句、テュレアティス、ひいてはキュヌーリアは少なくとも「勇士の戦い」までは自立的存在であった。
ところで、両地域がスパルタ領となったことは、直ちにペリオイコイ地域と位置づけられたと理解すべきなのであろうか。この地域の実情を伝える文献証拠はほとんどない。しかし、スパルタがペロポネソス戦争中にアイギナを追われたアイギナ人の一部をテュレアに入植させた事実は、テュレアティスがペリオイコイ地域とは別個の戦略的位置づけを与えられていたことを示唆する可能性も考えられる。G. Shiplyが指摘する-tis, -tas, -tes 等で終わる地域名の特殊性を十分に考慮することが必要であろう。
プラトン『ピレボス』における快苦の真偽について
村 上 正 治
快の現れの間に差異はなく、快=善の同一説を採る快楽主義に対して、ソクラテスのとる戦略は、快苦の現れにも真偽が帰属し、そして偽りの快は善ではない、という2点を示すことである。
ソクラテスは、快苦の現れと思いなしを比較照合する。思いなされる内容が誤っている場合、その思いなす作用も正しくなく偽といわれる。他方、快の内容が誤っていても、その悦んでいるという作用は偽とはいわれない。心的作用とその内容はどのように成立して真偽が帰属されるのか?
魂のなかの書記官と画家という比喩はこの問題に応答する。現在と過去の知覚内容である様態から情報が総合・判別されて「s はp である」という言表として思いなしは成立する。思いなしの真偽は、書記官がいかなる言表を書き込むかという、その判別に依拠する。どのように思いなすのかという判別作用のあり方と、思いなされる内容の真偽は分離できないのである。心的作用の真偽は、内容の真偽から派生的に帰属するわけではない。さらに、期待や表象の真偽は、そのひとの思いなしの判別のあり方に依拠することが示される。認知的な状態のあり方がそのひとの懐く快苦の現れの真偽を規定するのである。
ある快の内容が現実的な対応をもたない点で偽であるとしても、その快の現れそのものは現実であり善ではないのか? 快苦の度合いの判別ミス、中間的様態に対する誤解、快苦の混合による快の現れという3つの議論は、現実的な対応をもたない快、つまり偽りの快は実際には快でさえないことを示す。
プラトンは、われわれが悦び苦しむといった、いわゆるエモーショナルなものを、私的で直接的な所与としてではなく、われわれの認知的な状態によって規制されて発現するものとして位置づける。われわれの魂の統制的な認知システムが想定され、それに基づいて、快苦の現れをも公共的な理解のもとにおくのである。
祝祭と家畜市―IG.V.2.3の分析を中心に―
岡 田 泰 介
古典期以来、市が古代ギリシアの祝祭のほとんど不可欠の構成要素であったことは、 広くみとめられている。祭を主催する国家は市の運営に気を配り、商業活動の呼び水として免税特典を設けることも多かった。こうした市で売買された物品の一つに家畜がある。とりわけ古典期以降、アテナイをはじめ規模の差こそあれギリシア各地で、家畜市場の発達がみられた。本報告は、アルカディア東南部のポリス、テゲア出土の アテナ・アレア神殿領に関わる一碑文の検討を通じて、古典期における家畜市場の様相の一端を窺おうとする試みである。
アテナ・アレア神殿はテゲア中心市内に位置していたにもかかわらず、その周囲には比較的広い放牧地が広がっていた。国家はこの放牧地を特別な保護下に置き、一般の利用は通常は禁止されていたが、三年に一度の大祭の際の三日間に限り、祭を訪れる人々の役畜のほか市に集まる多数の家畜の便宜を図って、一般の利用に開放された。この家畜市へは、テゲア市民に加えて外国人や内外の他の神殿の関係者も取引にやって来た。国家が普段一般の利用を制限している神殿領を市の際に限って開放した措置の背景には、市に対する国家の財政的関心がよみとれる。山がちで可耕地に乏しいアルカディアにあって、牧畜は経済的に大きな位置を占めていた。また、アルカディアは鉱物資源など多くの物資を外部からの輸入に依存して おり、近年ではその代価として畜産品が担った役割が注目されている。このような背景の中で見たとき、本碑文は古典期アルカディア域内での活発な家畜取引のありさまを窺わせると同時に、テゲアが、アルカディアの東南端に位置する地の利を生かして、アルゴス、スパルタなどの隣接諸国との畜産品交易の拠点となっていた可能性をも示 唆している。
言論を語るということ−『メノン』篇における想起の実験
田 中 伸 司
「徳とは何であるか」の答えがすべて退けられたとき、メノンは探求そのものについてのアポリアを提出する。これに対してソクラテスは「探求することは、全体として、想起なのである」(81d4-5)という言論を提示し、想起の実験により探求の可能性を示そうとする。その際、対話相手をつとめる召使いの少年についてソクラテスはつぎのように尋ねる。「ギリシャ人だね、ギリシャ語を話すだろうね」(82b4)。本発表では、「ギリシャ語を話す」という日常の言語活動の可能性が探求の基底であり、この探求の基底が露呈した場において想起の実験は「言論を語るということ」そのことに関わっていることを論じたい。
主な論点はつぎのとおりである。[1]メノンのアポリアは知の獲得を退けるものではなく、無知である人が知者の助けなしに探求することを不可能だと指摘するものである。この「論争家好みの」と呼ばれるアポリアの背景には、知を教授されるものと考えるメノンの「習慣」(82a5, cf.70b6)がある。しかし、想起の実験は知の教授の実演ではなく、問う人と答える人という対話構造 (cf.75d5-7) により探求の可能性を証明するものである。[2]言論を語ることは聞く人と語る人との関わりにおいてある。つまり、示された図形が二倍の面積となるかどうかは定義によって決まるのではなく、そのつどの対話において吟味される。言論の真理は対話に関わる人びとの承認に依存しており、それゆえつねに暫定的である。探求の可能性はこの暫定性のうちにあり、それは「ギリシャ語を話す」という日常の言語活動の可能性にほかならない。[3]言論の真理のそうした暫定性にもかかわらず、真偽について語りうるということにおいてすでに、われわれは秩序だった「全体」を認めてしまっている。そうした秩序を認めることを誤りだと言おうとも、誤りだと語ることが有意義であるためには、すでにそこには一定の秩序がなくてはならない。この「すでに認めてしまっている」ことを「把握しなおすこと」(85d6) が、「想起」なのである。
ディオドロスのシチリア奴隷反乱記に関する“史料”的考察
松 原 俊 文
前2世紀後半にシチリアで勃発した二度の“奴隷戦争”は、土地所有の集中化に伴う奴隷制経済の拡大が顕著になったとされるローマ共和政後期の社会経済史研究はもとより、古代奴隷制に関わる諸研究全般に重要な意味をもつ。だがこれらの奴隷反乱は、グラックス時代・サトゥルニヌス時代の政争、そしてヌマンティア及びキンブリ族との対外戦争と時期が重なったためその陰に隠れ、現存する歴史文献の中での扱いは小さい。その中で例外的なのが、事件を遠因まで溯って記述したシチリア人ディオドロスである。だが彼の記述はまた、現代の研究において多くの議論を醸してきた。その理由は、第一に両反乱に関するほぼ唯一の詳細な文献史料である彼のテキストが完全な形では残っておらず、更にそれが様々な歴史的誤謬や文献学的問題を内包するためである。
今発表では、特に二つの奴隷反乱記間の構成の相似、ギリシア人共同体と“イタリア人地主”の役割、騎士陪審員によるquaestio de repetundisのアナクロニズム、同時期にイタリア及びギリシア世界で勃発した奴隷反乱とシチリアのそれとの連関性といった問題に焦点を当て、これらをディオドロスの記述の元となった“史料”の面から考察する。一般にディオドロスの記述はポセイドニオスの『歴史』に基づいていると考えられており、事実第一次反乱の記述に関しては、その一節が『歴史』の断片とほぼ一致する。だが両史家を結び付けるのはこの一断片のみであり、ゆえに上記の問題すべてを、ポセイドニオスの“叙述パターン”或いはh喇ere Chronologie といった独特の歴史認識法に帰するのは危険である。これらの問題に対する完全な答えを見出すには、現存する証拠では不充分であるのを認めた上で、私は考察をローマ側の情報源、シチリア側の情報源、記述中に見られる“民間伝承”的要素の起源、そしてディオドロス自身の歴史観にも広げ、その中で幾つかの可能性を示唆する。
ハルモニア (音階) の有するエートスの問題
山 本 建 郎
周知のように、プラトンは Res.IVにおいてハルモニア (音階) の有するエートスに言及して、ドーリアーとプリュギアーのみを採り、自余のハルモニアー、とくにリューディアー系のそれを斥けている。同趣の言及はアリストテレスにおいてもなされており( Pol.VIII、ただしプリュギアーの扱いは異なる)、この評価は、古典期には、ほぼ一定していたものと思われる。この発表は、この内実がいかなるものであるかを、それが失われた音楽にかんするものであることによることの故にほとんど解答不能の問題であるという制約は十分に承知の上で、できる限り納得の行く了解を得ることを図るものである。
解答の糸口は、まず、3世紀の折衷家アリスティデース・クィンティリアヌスのDe Musica I 8と I 9における証言に手掛かりを求めて、その比較検討によって、それぞれのハルモニアの由来と構造を同定する点に求められる。この二つの証言はそれぞれ独立に、また互いに相反する側面をも示しながらなされているのであるが、それぞれを概念的な形式的叙述と次に、楽理家アリストクセノスの音階理論と哲学的な議論の分析をとおして、ドーリアーの意味をある程度確固たるものに仕組むことを試みる。理論の検討はハルモニア音階 ( 四分音階) と称される古代ギリシア固有の特殊な音階構造の意味の検討をとおしてなされ、哲学的な議論の分析は、トノスなる根本的な概念の意味の分析をとおしてなされる。それには、いわゆる大完全音階の成立の時期の考証も、大きな手掛かりとなる。
行論全体をとおして、プラトンの思想的な立場の検討が問われる。何分にも傍証と推測を積み重ねる極めて不安定な議論にならざるを得ないので、最終的な拠り所は、古代ギリシア精神史におけるプラトンの位置付けの妥当性にかかることになろう。
学会ホームに戻る