研究ノート
勝又泰洋:「第二次ソフィスト運動」の知識人たちとの対話
1980年代のアメリカで隆盛をみせた「新歴史主義」の旗手スティーヴン・グリーンブラットは、主著『シェイクスピアにおける交渉』Shakespearean Negotiations(1988年)を、「私には死者と対話したいという願望がまずあった」という言葉で始めている。グリーンブラットは、この「願望」を「文学研究にとって馴染みの動機」と述べているが、私の研究動機もその例外ではない。私が「対話」の相手に置く「死者」とは、いわゆる「第二次ソフィスト運動」(英語ではSecond Sophistic)において活躍した知識人たちである。
「第二次ソフィスト運動」とは、ローマ帝政期の後1~3世紀、帝国の東半で起こった、一大知的ムーヴメントのことを指す。主たる担い手は、由緒正しいアッティカ方言のギリシア語を駆使する教養人たちで、彼らは、過去の文学的遺産を材料に、多様な言語的装飾を施した弁論を披露しながら、帝国の各地を巡り歩き、人々から大変な人気を得ていた。著名な人物としては、たとえば、ディオーン・クリューソストモス(後40/50~110頃)、アイリオス・アリステイデース(後120~180頃)、ルーキアーノス(後120~180頃)などがいる。
ただここまでは単なる事典的説明とみなすべきで、内実はそれほど単純ではない。そもそも、「第二次ソフィスト運動」という呼称は、当時の代表的知識人ピロストラトス(後170~249頃)の『ソフィスト伝』中の評言にのみ由来し、この運動は、ピロストラトスにより「創られた」ものだ、とみる研究者もいる。ポイントとなるのは、彼の設定する「ソフィスト」なるカテゴリーに関わる問題で、アイリオス・アリステイデースは「ソフィスト」に、ディオーン・クリューソストモスは「ソフィストと混同された哲学者」に、それぞれ分類され、そしてルーキアーノスにいたっては、実は名前すら言及されていない。ところが数多く残る彼ら自身のテクストを読み比べると、そこには明らかな類似性がみてとれる。結局「ソフィスト」とはどのような存在なのか。
思わず具体的な話に入ってしまったが、要するに私も、このような問題含め、「第二次ソフィスト運動」にまつわる種々のテーマについて研究を続けてきた一人である。作業内容はすこぶるシンプルで、一言でいえば、知識人たちのテクストの文言をひとつひとつ丁寧に追いかけ、その特徴を抽出する、というものである。「対象テクストの修辞戦略の分析」という表現がわかりやすいかもしれない。これは、まことに地味ではあるが、たいへん大事な仕事だと考えている。というのも、「第二次ソフィスト運動」が真剣な学問の対象として取り上げられるようになったのは1970年頃、関連の研究の波が出現するようになったのは2000年代以降であり、研究者たちは然るべき仕方でテクストを読むことがまだまだできていないからである。外的証拠(たとえば先のピロストラトスの『ソフィスト伝』)などを用いつつ知識人たちの営みの実相をつかむことも重要ではあるが、それは大きな危険を伴う行為でもあり、まず行うべきは、彼らが生みだしたテクストそれ自体に目を向け、そこで展開される複雑な言語のトリックを注意深く解析していくことなのである。
以上が、私が現在にいたるまで行ってきた「死者」との「対話」の中身である。適切なやりとりができているかは甚だ心許ない(彼らは大層へそ曲がりなことで知られ、それを「売り」にしている感すらあるのだ)が、少なくともこちらは彼らの話に楽しく耳を傾けさせてもらっている。
勝又泰洋(京都大学非常勤講師)/2017.08.15