訳者からのメッセージ

髙橋宏幸:オウィディウス『祭暦』邦訳新版に寄せて

 オウィディウス『祭暦』の旧訳を改訂し、講談社学術文庫版を刊行することができた。旧訳が国文社から出たのは1994年で、30年ぶりの改訂ということになるが、翻訳作業に取りかかったのは1990年のことで、それから数えると35年になる。1990年というと、まだワープロの時代で、個人でパソコンを所有して使う人はきわめて少なく、ネットにつながるということなどほとんどなかった。

 ところが、この年の3月から10か月間在外研究の機会を得て、カリフォルニア大学バークリー校のアンダーソン先生に受け入れてもらって行ってみると、TLGデータベースのC版がワークステーションに入っていて、古典学科の研究室に置かれた端末(懐かしいマックのClassic II)から利用できるようになっていた。当時の先端的な研究環境だったと思うけれども、ログインということすらよく分からずにいた身では、その恩恵に与り、威力を感得するのは、日本に戻ってから1、2年してTLGのD版(およびPHI)CD-ROMをマックで動かせるようになったあとのことだった。

 それよりも羨ましくてならなかったのは、総合図書館の最上階に古典学科が専有する広々した閲覧室といくつかのゼミ室で、閲覧室の壁に並んだ書棚を埋める参考図書の中にはフレイザーの『祭暦』注釈本5巻もあった。そこに行くのが気持ちがよくて、この閲覧室で翻訳作業をした。とはいえ、いまなら当たり前のノートパソコンもなく、ノートに訳文とメモを書きつけて、結局、バークリーでは第二巻までの訳稿を作るにとどまった。

 自分にとって初めての原典訳だったので、手さぐりの部分が多く、まず手本にしたのは中村善也先生の『変身物語』訳だった。行分けをせず、基本的にですます調で、もとのラテン語と比べると多少冗漫になってもユーモラスな情調が伝わるような散文訳を目指した。4半世紀後に自分が出した『変身物語』は、行分けをして、原文で1行に表現されているものはできるかぎりそのまま1行に収めて訳出したので、見かけはかなり違っていると思うが、軽妙な調子を生かそうとしたことは変わっていない。

 見かけの違いの点で言うと、旧訳では固有名の長母音を無視したのに対し、今回の改訂版では音引きで表したことがすぐに目につくかもしれない。この変更は学術文庫編集部の編集方針によるもので、岩波書店版キケロー選集などで採用された方式が採用されている。この音引きを確認しているうちに、他の典拠で長母音とされている音節のいくつかをオウィディウスが短母音でスキャンションしていることが気づかれた。『アエネーイス』でのラーウィーニアが『祭暦』ではラウィーニア、プロペルティウスでマームーリウス(ないしマームッリウス)だったのがマームリウス、死者の祭礼は「死者の」を意味するフェーラーリスに由来してフェーラーリアのはずがフェラーリアといったところである。

 このことから固有名の表記について、少し考えさせられた。プリーニウスは、ダーキア戦争を題材に叙事詩を書こうとしている友人に、敵王デケバロスの名前が韻律にはまらない困難があるが、「ホメーロスも詩行が躓かないように、融通の利くギリシア語を縮めたり、延ばしたり、変えたりすることが許されている」(『書簡集』八・四・四)から、自由裁量で克服できる、と助言している。詩人は韻律の要請によって固有名の形を変えることが許容されている。

 けれども、オウィディウスの場合、韻律の要請はないので、なんらかの意図があってか、まったく恣意的かのいずれかである。フェラーリアについては、「捧げる(フェルント、フェロー)」を語源として説明する文脈であるので、それに合わせていると理解される。しかし、詩人はまた別の箇所でこの祭礼を「死者の時節」として言及し、形容詞フェーラーリスを使っている。あたかも、言葉の形が恣意的に変えうることを示すことに意図があるかのようにも見える。とりわけ、語源の説明では、もとの形から現在の形への変化が問題とされるので、その変化が恣意的であるとすれば、そこに諧謔表現が認められるかもしれない。

 ことの当否はともかく、長母音を無視した旧訳のときには、こうしたことを考えることもなかった。考えが足りなかったことは他にも多く、今度の改訂でそれらをできるかぎり補う機会を得られたことはたいへん仕合せだったと思っている。

高橋宏幸

書誌情報:
高橋宏幸訳、オウィディウス『祭暦』(講談社、講談社学術文庫、2025年8月)