訳者からのメッセージ

竹下哲文:マーニーリウス『アストロノミカ』

 ローマ帝政初期に活動した詩人マールクス・マーニーリウスの『アストロノミカ』は,古代の占星術・天文学についての貴重な知見を提供してくれる書物です.しかし,本作はそれにとどまらず様々な見地から興味深い情報源となる文献でもあります.以下では,この詩が持つそうした幾つかの側面を簡単ながら紹介したいと思います.

1. 占星術の書として

 まず,本作は西洋古代の占星術・天文学についてまとまった形で残された最古の文献のひとつに算えられます.同じ分野の著作としては,2世紀に活躍したプトレマイオスの『テトラビブロス』がありますが,マーニーリウスは時代的に先行します.もっとも,マーニーリウス自身は学者というより詩人であり,様々な典拠を取り交ぜつつ作り上げられたであろう本書には随所に不正確さや混乱も見られます.邦訳では,紙幅の許す範囲でそうした点にも注釈を施しました.組版の都合から注を各巻ごとにまとめる方式をとったため,特に第3巻で行なわれている計算などは追跡しにくいところがあるかもしれません.こうした点については,巻末図表を併せて参照してもらいますと,補いになるのではないかと思います.また,本作を含めた西洋占星術の長い歴史を全体として概観したい読者には,日本語で読める文献として,S.J. テスター(山本啓二訳)『西洋占星術の歴史』(恒星社厚生閣,1997年),T. バートン(豊田彰訳)『古代占星術――その歴史と機能――』(法政大学出版局,2004年)などをおすすめします.

2. アウグストゥス時代のラテン詩として

 本作の成立年代については幾つかの説がありますが,近年有力なアウグストゥス時代説をとるならば,マーニーリウスはオウィディウスの同時代人,つまりいわゆるラテン文学黄金時代の最後の世代にあたることになります.また,「教訓詩」(didactic poetry)と呼ばれるジャンルの枠内で見ると,本作は,主としてストア哲学的世界観に拠りつつ運命の秩序を歌うという点で,エピクーロス哲学を詩で綴ったルクレーティウス『事物の本性について』を意識していることが明らかな一方,タイトルに注目すると,ウェルギリウス『農耕詩(ゲオールギカ)』の向こうを張るものであることも読み取れます(余談になりますが,翻訳初期段階での本作の仮邦題は『天文詩』でした).後世の規範となる優れた作家を多く生んだこのラテン文学豊穣の時代の一作としても,『アストロノミカ』は一読の価値あるものと思われます.

3. 古代ローマの日常生活の記録として

 更に,天の星々が地上に及ぼす影響を扱う占星術を題材とする本作の特徴として,当時のさまざまな職業や生活の場面が記録されていることがあります.第4巻から第5巻にかけては,農耕や航海のような比較的メジャーな技術だけでなく,速記術や大道芸,製塩業や魚醤(ガルム)作りなど,文学作品の中ではあまり見かけない仕事風景が描かれます.こうした箇所は,古代ローマの技術や生活全般に関心を持つ読者にとっても,その興味にこたえてくれる情報源になっています.

4. 文献学者たちの学殖の宝庫として

 最後に,『アストロノミカ』は多くの優れた文献学者たちの研究対象となってきた作品でもある点に触れなければなりません.実際,スカリゲル(Joseph Justus Scaliger, 1540-1609),ベントリー(Richard Bentley, 1662-1742),ハウスマン(Alfred Edward Housman, 1859-1936)といった古典文献学史上の巨人と言うべき学者たちが本作の校訂に携わっています.彼らの施した注釈はいずれもラテン語で書かれているため取っつきにくい印象がありますが,ラテン語の語法や古事全般についての情報の宝庫であり,難解な書物を読み解く技法を学ぶための手がかりに満ちています.邦訳に当たっては,ハウスマンの注釈に頼るところが最も大きく,時に作品本文よりも晦渋なその文章には,悩まされつつも多くを教えられました(それらの知見を正しく訳文に反映できたかについては不安も残ります).本翻訳がこうした研究資源を多少とも親しみやすいものにできたならば,大変喜ばしいことと思います.

竹下哲文

書誌情報:
竹下哲文訳,マーニーリウス『アストロノミカ』(講談社,講談社学術文庫,2024年11月)