訳者からのメッセージ

山田哲子:スタティウス『テーバイ物語1・2』

 今は昔、私が大学院生だった頃、逸身喜一郎先生からスタティウスの翻訳をやってみないかというお話をいただいた。卒論で『アエネーイス』を扱った私は、同じ叙事詩である『テーバイ物語』ならばやってみたいとお答えした。スタティウスとの最初の出会いであった。

 それから翻訳が出来上がるまでには長い長い時間がかかってしまった。オデュッセウスはトロイアを攻略するのに10年、故郷に帰還するまでにさらに10年の歳月をかけたわけだが、それよりもはるかに長い年月が、この『テーバイ物語』翻訳にかかってしまった。遅延に遅延を重ねて京都大学学術出版会には多大なご迷惑をおかけしたことをこの場を借りてお詫びしたい。

 最初に仮に訳してみたのは、アルゴス王の娘アルギアが夫ポリュニケス(ポリュネイケス)の無惨な遺体を輝く月光の中で見つけ出す場面であった。その時にはパソコンではなくワープロで作業をしたような記憶がある。爾来パソコンやネット・AIの進化は目覚ましく、校正をする時などには各種機能が大いに役立った。便利な世の中になったものである。しかし、翻訳を始めた時代にはまだ、戦や疫病や天変地異といった古代の災厄が、現代の私たちにとってこんなにも身近になるとは想像していなかったように思う。

 白銀時代の詩人であるスタティウスの評価は、当時は必ずしも高いものではなかった。海外では再評価の動きが始まっていたが、国内では、1992年に発行された『ラテン文学を学ぶ人のために』(世界思想社)において「スターティウスは良くも悪くも職人的詩人であって、詩作の要諦は心得ているものの、しばしば情感の深さを欠いており、彼の崇めた「神々しき『アエネーイス』」には及びえなかったのである」と酷評されていた。

 確かに『テーバイ物語』は、古典的な均整のとれた作品とは言い難い。ギリシア悲劇で名高いオエディプス(オイディプス)とその呪われた息子たちポリュニケス(ポリュネイケス)とエテオクレス兄弟の運命がいかなるものであったかその具体的な経緯が語られることを期待すると、この叙事詩は冗長で散漫なものと感じざるを得ない。オエディプスがいかなる運命のもとに盲目となったかは読者は当然知っているのが前提である。同じように、その息子たちが祖国テーバエ(テーバイ)の王権を争って互いに殺し合うことになることも周知自明の筋書きであって、今更つまびらかには語られない。むしろ周辺的な出来事の方が多く語られている。例えば、第五歌の大部分を占めるヒュプシピュレの物語も、第六歌で語られる葬送競技も、テーバエの王権を巡る戦とは直接には関係がない。アルゴスから出陣したポリュニケスの軍勢がどのようにテーバエに攻め寄せたのかと具体的な顚末を続きに期待する読者にとっては、話が脇道に逸れたまま停滞しているようにしか思えない。しかし、このような逸脱そのものが『イリアス』以来の叙事詩の伝統であると納得した上で、周辺的な出来事がいかに詩的に描写されているかを味わうことが読者には求められている。

 また、ポリュニケスとエテオクレスが二人とも死んで荼毘に付された後にも戦争は終わらず、テセウスとクレオンの間でさらに戦端が開かれるというくだりでは、ストーリーの展開として冗長に過ぎるという印象を免れない。しかし現代の我々も知っているように、現実の戦争というものは一度始まるとどれだけ倦み疲れていても簡単に止むことはない。スタティウスの時代のローマは、皇帝が次々と変わる戦乱の世の中でもあった。テーバエ王家という古い神話伝説を題材にしながら、実際には同時代のローマの現実を描いているのではないかと思われる場面も多いのである。『テーバイ物語』は、使い古された題材をただ時系列に沿って並べただけの作品ではない。

 第六歌で語られる葬送競技に注目してみよう。ここで競技に参加するのは、「テーバエ攻めの七将」として名高きアルゴス軍の武将らであって、この叙事詩の中心的な登場人物たちである。葬送競技の描写は『イリアス』以来の伝統であるが、この競技に向き合う姿勢や対戦相手とのやりとりなどを通じて、「七将」の人物像が鮮明となる。英雄叙事詩に相応しい勇猛なテュデウス、神々をも恐れぬ豪胆なカパネウス、威厳に満ちていながらも柔和なアルゴス王アドラストゥス、そしてパルテノパエウスは、うら若い美少年の戦士として描写される。第九歌で討ち死にする時には、白い肌を深紅の血潮に染め、『アエネーイス』のエウリュアルスの系譜に連なる人物像として描かれることになる。叙事詩の終わり近くでスタティウスがこの少年の名前を繰り返し呼びかけていることからも、この人物像に詩人が思い入れがあったであろうことが察せられる。

 人間だけでなく、神々あるいは神格化された抽象概念などの描写もまた生き生きとしている。特に有名なのが「眠り」の神の描写であろう。ほの暗い館の奥で横たわる姿は、虹の女神イリスの輝きを曇らせるほどのけだるさに満ちている。しかし、アルゴス軍の夜襲に勝利を与えるためにテーバエの軍勢を眠らせる時、容赦ない重さで肉体にのしかかって死への抵抗を奪ってしまう恐るべき神でもある。さらに「敬虔(ピエタス)」の描写も印象的である。人々からの崇敬を失い、かつてのような立派な装いもなく、復讐の女神ティシポネに罵倒されて戦場から追い払われてしまう。この戦いには正義も信義も無いことが、詩的な描写で明らかにされているのである。しかし、陰惨な描写だけではなく、「慈悲(クレメンティア)」の祭壇など、宗教的な静謐さを湛えた場面もまた印象に残る。

 このような詩的な描写を翻訳するには、当然困難が伴った。特に、原文のリズムと音の響きから醸し出される豊麗な雰囲気を日本語に移すのは、詩神に祈りを捧げてもなお限界があった。白銀時代の特徴である過剰なまでの文章表現は、そのまま訳したのではますます読みにくくなると思われたので、なるべく日本語として読みやすい表現になるようにとつとめた。そのため、意訳に近いことも行なっているし、原文の味わいであるはずの晦渋さは薄められることになってしまった。なるべく原文の一行と翻訳の一行を合わせようとは努力したが、次々と詩行をまたいで流れて行くリズムを翻訳に反映させるには無理があった。またなるべく原文のニュアンスを伝えようとするあまり、日本語の方が字数が多くなりすぎて、とうとう最後には2分冊にしなければ収まらなくなってしまった。出版会には重ねてご迷惑をおかけしたことをお詫びしたい。

 白銀時代のラテン詩は、国内でももっと高く評価され享受されるべきではないかと思う。ギリシア文学の叙事詩や悲劇の翻訳が出揃っている今、古典文学の約束事や神話伝説を十分に知った上で、ひと味違うラテン詩を味わう愉しみが国内にももっと広がってよいのではないだろうか。

山田哲子

書誌情報:
山田哲子訳、スタティウス『テーバイ物語1』(京都大学学術出版会、西洋古典叢書、2024年9月)
山田哲子訳、スタティウス『テーバイ物語2』(京都大学学術出版会、西洋古典叢書、2024年10月)