訳者からのメッセージ
坂井建雄・池田黎太郎・福島正幸・矢口直英・澤井直:ガレノス『身体諸部分の用途について2』
ガレノス研究の新たな可能性
近年欧米におけるガレノス研究熱は凄まじいものがある。新しい校訂本はもとより、さまざまな研究書が相次いで出版されている。国内でも日々関心は高くなっており、つい先日(2024年5月25日)も科学史学会で、弘前大学の今井正浩先生により、ヒト生殖の論争史をテーマにガレノスに関するご発表が行われたところである。
京都大学学術出版会からは、これまで『自然の機能について』、『ヒッポクラテスとプラトンの学説について』、『ガレノス 解剖学論集』、『身体諸部分の用途について1』が出版されている。『身体諸部分の用途について』は、原題でΠερὶ χρείας μορίων「諸部分の用途について」と言い、このχρείαは「用途」とも「有用性」とも解される。全17巻の大著で、ガレノスの主著の一つである。第2分冊は、同書の第4-7巻を収めている。第4-7巻には興味深い話がいくつかあるが、例えば、心室中隔(右心室と左心室を隔てる壁のようなもの)に孔が開いているというガレノスの有名な誤解が出てくるのもここである。これまでガレノスの解剖学書翻訳は、坂井建雄先生(解剖学)、池田黎太郎先生(西洋古典学)、澤井直先生(科学史)のチームで行われていたが、この第2分冊からイスラーム医学を専門とする矢口直英氏とギリシア・ローマ医学を専門とする私(福島)が加わった。訳者の一人という立場から、本訳書のユニークな点について若干記したい。
ガレノスのギリシア語は、一般にかなり難しいと考えられているようである。私が留学先のイギリスでガレノスの研究をしていると言ったとき、あるギリシア語の上級講師の先生が「あんなに難しいギリシア語が読めるのであれば、君は相当ギリシア語ができるね」と仰った。しかし、私自身はこの回答に困惑した。私は自分のギリシア語力に自信がないばかりか、ヒッポクラテスのギリシア語に比べれば、ガレノスのギリシア語は文法的にも語彙的にもかなり平易だという印象をもっていたからである。むしろ、語彙や文法の面では、ヒッポクラテスの方が何を言っているのか分からぬことが多い。後にこの話を、ヒッポクラテス・ガレノスの専門家であるナポリ東洋大のAmneris Roselli先生に話したことがあるが、先生は私の意見に同意して下さった
ではガレノスの難しさは何かと言えば、それはもちろん内容にある。まず、医学的な知識の乏しい者には、解剖学に関する記述が、ほとんど理解できない。文法的に複数の解釈があり得る場合、何を言っているか分からなければ、誤訳の危険性は増す。また、当時の医学にも、身体諸部分に関してさまざまな名称があるが、数は今と比べて相当少ない。そのため、筋肉の描写一つを挙げても、ガレノスは「どこどこから出て、どこどこを通って、どこどこへ到達する筋肉は」と特定の名称なく記述することが多い。さらに、この記述を読みながら解剖学書と睨めっこしても、そのような筋肉が見つからないこともある。ガレノスはサルの解剖を基に記述しており、ヒトとは構造が異なる部分がいくつかあるからだ。しかし今回、解剖学者と共に翻訳作業を進める中で、ガレノスの解剖学的記述が、たとえサルであるにせよ、相当に正確なものであることが分かり驚愕した。翻訳書という性質上、図版を掲載することに制限があるのはやむを得ないが、実際に説明を受けながら記述と図版を見比べれば、如何にガレノスの記述が精緻であるのか分かる。このことは本訳書の括弧書きにある詳細な解剖学的同定にも示されていると思う。ガレノスは、「解剖をしたことがある者ならば」という表現を好んで用いるが、解剖家としての自負の現れであると同時に、どうやら私のように実物を見ていない者への苦言であるらしい。何事も実践した人には及ばない。
もう一つ本書の別のユニークな点を挙げれば、今回のチーム編成で新たにイスラーム医学の専門家を招くことができたことである。現在出版されているガレノスのギリシア語校訂本のほとんどは、古典学者、すなわちギリシア語・ラテン語の専門家によって作られている。
その数少ない例外が、シエナ大学のIvan Garofalo先生による『解剖手技(Ἀνατομικαὶ ἐγχειρήσεις)』であり、先生はギリシア語、ラテン語に加えてアラビア語も不自由なく使いこなす。余談だが、Franco Montanari編として出版されている希伊辞典(通称GI)の編纂仕事の大部分を行ったのも、このGarofalo先生だと聞いている。驚くべきかな、Garofalo先生は中学生の頃からアラビア語に接しているとのことであるから、アラビア語の方は古典語のさらに上を行くのかもしれない。
ガレノスの校訂本でも四半世紀以上前に出版されたものには、テクストの欠損や読みに問題のある箇所が多い。そんな場合に非常に有益な情報を示すのがアラビア語の翻訳である。Garofalo先生は『解剖手技』のテクスト校訂にあたり、アラビア語の翻訳を元にかなりギリシア語の欠損を再現している。校訂本に印刷されたギリシア語原語がどう考えても意味不明な場合に、写本の異読を見るが、ギリシア屋としての作業は通常ここで終わる。apparatusの記述に不信感があれば、写本に直接あたるが、有益な情報がなければ、これもそこでアポリアに陥る。しかし、アラビア語に精通していれば、光が差すこともある。現在進行中の『身体諸部分の用途について3』の翻訳作業でも、アラビア語の単語を聞き、それに対応するギリシア語を考えた場合、なぜギリシア語の写本でそのような誤写が生じたのか思わず唸ってしまうような場面が何度かあった。
無論、解剖学とアラビア語に精通していれば、このような作業を一人で行うこともできようが、残念ながら私は、どちらも付け焼刃の知識しか持たぬゆえ、お二方の学識を仰ぎ見るしかない。どちらかといえば、私はこれまで机に向かい埃を被った本と一人で格闘するという経験が多かったが、今回このような他分野に跨る横断的な研究を通して、改めてそのχρείαを再認識している。
福島正幸(日本学術振興会特別研究員・順天堂大学)
書誌情報:
坂井建雄・池田黎太郎・福島正幸・矢口直英・澤井直訳、ガレノス『身体諸部分の用途について 2』(京都大学学術出版会、西洋古典叢書、2022年10月)