訳者からのメッセージ

内山勝利:クセノポン『ソクラテス言行録/2』

 クセノポンの作品世界では、古代アテナイの比較的上層の市民たちが、まさに等身大で生きて活動している様をありのままに見るように思われる。おそらくはそう思っていいのだろう。今日に伝わる古代ギリシア作品の多くが、法廷弁論を含めた散文著作であっても、「英雄的」トーンを湛えるか、逆に「喜劇的」卑小さによってか、ともかくもナマの現実を突き抜けたスケールの上に結構されている中では、彼の諸著作はかえって異色を感じさせるものとなっている。プルタルコスの『モラリア』の一部にもそれと共通した人間的地平が窺われるだろうが、そのグレコ=ローマン期の著作家のやや諦観を帯びた穏やかさとも違って、クセノポンは(生涯の大半を他郷で過ごしながらも)常に自由市民エリートとしての立場に身を持し、その視野の中に捉えた同時代を、あるがままに伝えようとしている。われわれが古代ギリシア人に、そして彼らのレガシーに魅せられるのは、むしろ日常を超えた何か根源的なものを指し示す導者の視線においてであるとすれば、クセノポンの平常さに飽き足らぬものを覚えがちなのも当然かもしれない。しかし、その都度与えられた状況を淡々と受け止め、たとえ戦場にあってさえも、ほとんど意識的に気構えすることもなしに、市民的徳に適った態あり方を逸れることなく貫いていくこともまた、見事な古典的生の実現と言わなければなるまい。

 彼の描いたソクラテスもまたそういう眼差しの中で捉えられたかぎりでの、あるがままのソクラテスなのであろう。むろん、これこそがソクラテスなのだ、というのではない。しかし、これもまたソクラテスの一つの本姿にほかなるまい。プラトン的ソクラテスの深い魅力と対置して entweder oder を言うのは筋違いである。

 以下「解説」と重複するが、なるほどクセノポンにも、クセノポンのソクラテスにも、深い「哲学的考察」は見いだせないかもしれない。しかし生前のソクラテスの言行の逐一をたえず思い起こしつつ、ソクラテスのさりげない日常の姿に示現されてあった「善く生きる」ありようをクセノポン自身の生のうちになぞらえて生きることに努めたかぎりにおいては、「ソクラテスの徒」として人後に落ちないだけの自覚と矜恃を有していたはずである。彼は「哲学者」たろうとはしない。彼にとって哲学とはむしろそれを生きること、すなわち「ソクラテスに倣って(imitatio Socratis)」日々を全うすることであった。矮小化を懼れずに言えば、クセノポンにとって哲学とは、理想的な意味での人生訓として生身の生のうちに浸透し、それを支える力として息づいているものなのである。それがまさに彼独特の「カロカーガティアー」に他なるまい。当時、風潮のように使い回されていた「アレテー」の語を殊更避けて、あえて彼がこの理念を対峙させたのは、クセノポンには珍しく時の思想状況に対する反発の意思を静かにそこに込めていたのかもしれない。

 ディオゲネス・ラエルティオスが彼を、プラトン、アンティステネスとともに、三人の主要なソクラテスの徒として挙げているのも、少なくともその時代(後三世紀初頭)における評価の反映として、異とするに足りないとも言えよう。ローマに根を移した哲学がむしろそのように生の指針としてのあり方を本領としたことは、帝政期のストアの賢者たちによって明瞭に示されている。クセノポンは、あるいはその先蹤者であったのではないか。彼の著作がローマ人のあいだで歓迎されたのは、平明率直な模範的文章の力によるところ大であるともに、常にその思想が思索としてではなく、具体的実践において論じられていることが彼らにうまくマッチするものだったからであろう。

 クセノポンの著作は、おそらくすべて今日まで伝わっていると考えられている。古代の著作家の中で、相応の量のものを著しながらそうした僥倖に恵まれた者は、わずかに数えられるだけしかいない。伝承には偶然に大きく左右されるにせよ、そのことはたしかに彼が古代から長く広く読み継がれてきたことを物語っている。

 ここに訳出したのは『家政管理論』『酒宴』『ソクラテスの弁明』の三作品である。『ソクラテス言行録/1』の『ソクラテス言行録』と併せてクセノポンの Socratica のすべてである。従来『ソクラテスの思い出』という表題で親しまれてきたものをはじめ、『家政論』や『饗宴』とされてきた著作をあえて改題したについては、それぞれ巻末解説で弁明めいた理由を記してある。このほうがいいと断定するものではないが、一つの試みとして受け止めていただければさいわいである。

 訳文中に「ゼウスにかけて」「ヘラに誓って」の類いのフレーズ(「断じて」とか「是非にも」など文意強調の慣用句)、また「と彼は言った」「とわたしは言った」のような挿入句が頻出するのは、煩わしいかも知れないが、あえて愚直に訳し込んである。特に後者は句読点などなしに書き連ねたパピルス原本で発言者やその交替を明示するために必要とされたもので、今日的な文章表記では無用であろうが、プラトン対話篇の場合と同様に、これらもまたクセノポンのスタイルの一環と考え、その頻度に戸惑いつつも、元のまま残してみた。

 〔追記〕早々に誤記誤植が見つかり、正誤表を京都大学学術出版会のホームページに掲載致しました。

 

書誌情報:内山勝利訳、クセノポン『ソクラテス言行録/2』(京都大学学術出版会 西洋古典叢書、2022年7月)