訳者からのメッセージ

中務哲郎:『オデュッセイア』を訳し終えて

 「なほホメーロスの作のテキストは英文の對譯のついてゐるThe Loeb Classical Library中のものが便利である。そのほか英譯ではA. Lang, W. Leaf, E. Myersの共譯のIliadとS. H. Butcher, A. Lang共譯のOdysseyがよいと思ふ。日本譯では大正四年に馬場孤蝶氏の『イリアード』が出てゐるが、これは一寸推薦しかねる。その後内村氏、土井氏等のギリシア語からの譯が出はじめたが完成したことを聞かない。『オデュッセイア』の方は昭和十四年に田中・松浦兩氏の譯が出てゐる。しかしホメーロスの譯は幾種類あつても多過ぎるといふことはないのであるから、力のある方々が續々と新譯を試みられるやう切望に堪へない。」

 和辻哲郎が『ホメーロス批判』の序言でこのように述べたのは1946年のこと。その後、『オデュッセイア』については詩人の土井晩翠による韻文訳(1950年)と、西洋古典学における泰山北斗と仰がれる呉茂一、高津春繁、松平千秋による邦訳が現れている。高津訳は散文訳(1964年)、呉訳は改行散文訳(1971年)であり、松平訳には改行散文版(1982年)と散文版(1994年)とがある。そこに新たな訳を加えるのは屋下に屋を架す類いと謗られそうだが、それにもかかわらず私が新訳に取り組んだのは、これまでの邦訳にはない試みをしてみたかったからである。その新機軸とは、「当たり前のことではないか」と笑われるかも知れないが、同じギリシア語は同じ日本語に訳すということである。

 『イリアス』『オデュッセイア』は何世紀にもわたる口承叙事詩の伝統の上に成立した作品であり、近代の小説には見られぬ特色を有する。まず、人名や地名あるいは事物にも、日本の和歌における枕詞にあたるエピセット(形容辞)が付く。次に、語句や詩行の繰返しが多い。繰返し現れる語句は定型句(フォーミュラ)と呼ばれる。詩行の繰返しは1行か2行のものから20行近くに及ぶものまである。『イリアス』は15,693行、『オデュッセイア』は12,110行から成るが、この中9,250行以上が繰返しの行であるか繰返しの語句を含む行である、と計算した人がある。

 繰返し現れるエピセット・定型句・数行の纏まりには同じ訳語を宛てるのが当然のように思えるが、そのことを実践した邦訳はなさそうである。私は日英独語の幾つかの翻訳で調べてみたが、それを最も忠実に行うのはラティモア訳(R. Lattimore, The Odyssey of Homer. New York 1965)であった。

  同じギリシア語は同じ日本語に訳すとはどういうことか、その限界も含めて実例を示したい。

(1)エピセットの場合。

 例えばオデュッセウスにはἀντίθεος(アンティテオス、神の如き)、δαΐφρων(ダイプローン、賢明な)、πολύφρων(ポリュプローン、思慮深い)、ταλασίφρων(タラシプローン、堅忍不抜の)、πολύτροπος(ポリュトロポス、機略縦横の)、πολυμήχανος(ポリュメーカノス、策に富む)、πολύμητις(ポリュメーティス、知恵豊かな)、ποικιλομήτης(ポイキロメーテース、七色の知恵の)等々、数十種ものエピセットが付く。船には(ギリシア語は省くと)刳りぬいた、空ろな、舳先の曲がった、両端の反った、黒く塗った、さ丹塗りの、群青色の舳先の、オールの長い、櫂受を多く備えた、等々、これまた数十種のエピセットが用意されている。これを再現するのは煩わしとして訳し分けをしない訳、省略してしまう訳もあるが、私はそれぞれに固定した訳語をこしらえた。すると困ったことが生じる。ἀμύμων(アミューモーン)というのは普通「非の打ち所なき」の意味だと解釈されるが、これがアガメムノンの妃クリュタイメストラと姦通してアガメムノンを弑逆したアイギストスに付けられるからである(1歌29行)。この場合、モラルでなく美貌の申し分なきことを言うのかもしれず、あるいは語の本来の意味が忘れられたとも考えられる。

(2)繰返しの語句、いわゆる定型句の場合。

 ἕρκος ὀδόντων(ヘルコス・オドントーン、歯の垣根)という句がある。アテナの口から意外なことを聞かされたゼウスが、「娘よ、お前の歯並の垣根より、何たる言葉が洩れたることよ」と窘める(1歌64行)。これは「何たることを言うのだ」というほどの意味で、readableなことで定評あるRieu(Penguin Classics)などは’Nonesense, my child !’で済ませている。私が直訳を選んだのは、これが定型句であることを際立たせるためと、ホメロスにもケニング(謎言葉。1語で表せる事物を2語、3語で言い換える修辞法)があることを示したかったからである。『オデュッセイア』には「歯並の垣根」=口の他、「海の馬車」=船、「船の翼」=櫂などの例がある。

 夜が明けることを表現する美しい定型句が『オデュッセイア』では20回繰返される。拙訳では「暁(あかとき)生まれ、薔薇色の指を開く曙女神(エオス)が姿を現すと」で統一したが、ῥοδοδάκτυλος(ロドダクテュロス、薔薇の指の)を「薔薇色の指を開く」としたのは、旭日が八方に光線を放つのを、詩人は曙女神が指を一杯に開くように観じた、と解釈してのことである。

 同じ原文を訳では少し変えざるを得ない場合がある。ギリシア語には敬語がなく、男ことばと女ことばの区別もないが、日本語ではその違いを出す必要がある。父親の消息を求めて密かに旅立ったテレマコスは、求婚者たちに命を狙われながら無事帰国する。それを迎える召使のエウマイオスと母ペネロペイアは同じ言葉で喜びを表すが、訳では、召使の場合は「帰りなされたか、我が喜びのテレマコス」(16歌23行)とし、母の時は「帰って来てくれたか、我が喜びのテレマコス」(17歌41行)と変化をつけた。但し私は、男ことばと女ことばの違いをできるだけ小さくし、神に対する敬語も過剰にならぬよう心がけた。

 エピセットと定型句の多用、そして頻繁な詩行の繰返しは語り物としての叙事詩の特徴であるから、同じギリシア語は同じ日本語に訳すということは、口承叙事詩の特徴を翻訳においても再現しようと努めることに他ならない、と私は考える。

書誌情報:中務哲郎訳、ホメロス『オデュッセイア』(京都大学学術出版会、西洋古典叢書、2022年7月)