著者からのメッセージ

細井敦子:自著の紹介

  

 今年1月末に、「一般読者」を想定した本を出しました。書誌の概要はつぎのとおりです。   

  • 書名:『船の旅 本の旅』(著者:細井敦子)
  • A5判・324頁・3190円(税込)・ISBN978-4-907078-37-9
  • 発行日:2022年1月26日
  • 発行所:(株)書肆アルス(TEL.03-6659-8852)
  • https://shoshi-ars.com

 学術論文ではない、いわば随想集ですが、その概要紹介を、『週刊 読書人』(新聞)からの依頼を受けて同紙に書きました。転載の形でそれを西洋古典学会のHPに投稿したいと思います。

 それは、本書の第4章で扱っているのですが、古典作品の伝承とくに中世写本の調査は、すでに西洋の研究者たちによって、し尽くされているようであっても、実際に自分の目でよく見てみると、そこには必ず、小さくても新しい発見がある、そのことを若い方々に伝えたい気持ち(文字通りの老婆心!)があるからです。

 18世紀初めにフランスの学僧モンフォーコン (Bernard de Montfaucon, Palaeographia Graeca, Paris 1708) によってその基礎が置かれた「近代のギリシャ古写本学」そのものを専門の研究分野とするには、私たち極東の研究者の立場は不利かもしれません。でも特定の作品研究の場合、近代の校訂版の基礎になっている中世写本を、既存のapparatus criticusだけに頼らずに自分の目で見ることは、意味があると思います。主要な写本は、現在では所蔵館によるデジタル化が進んでいますから、写本画像と印刷された校訂本とを見比べながら、そして必要に応じてM.Vogel & V. Gardthausen, Die griechischen Schreiber des Mittelalters und der Renaissance (Leipzig 1909) 、R. Devreesse, Introduction à l’étude des manuscrits grecs (Paris 1954) 、A. Dain, Les manuscrits (Paris, 19753, Bibliographieも) のような基本的な書物を参考にしながら、縮約形の読み方など実際的な準備をしておくことができれば、機会を見て(世界が平穏であれば)現地の図書館に行って「本物」に当たって自分の目で調べることも容易になるでしょう。ギリシャ語写本の大文字から小文字への推移は、日本の場合の漢字から仮名文字への推移とほぼ同時期に、文字を、限られたスペースに速く書く必要から起こっています。写経とか書道とかの伝統が現在まで生きている文字文化圏の者には、共感できるものがあるはずです。写本に興味がおありでしたら、とりあえず本書251頁にハイデルベルク大学図書館蔵リュシアス写本のURLがありますから、それを開いて、本書の247~254頁にある記述が正確かどうか、検証してみて下さい。

『週刊 読書人』第3434号(2022年4月1日)より転載

同紙見出し:著者から読者へ <古い言葉への憧れ、遠いところへの願望>

 どうして古典ギリシャ語を勉強する気になったのか、と聞かれることがあります。家にあった岩波文庫昭和2年版の、バルフィンチ著・野上彌生子譯『希臘羅馬神話』が愛読書のひとつだったこと、中学がカトリック系の学校で、教会のミサではラテン語が基本の時代でしたから「栄光頌・グロリア」、「使徒信経・クレド」など、文法も知らないままに文語体の日本語訳と並べて親しんでいたこともあって、大学での進路として、ラテン語と同様に西洋の古典語でもっと古そうなギリシャ語を学びたい、と思うようになりました。この「時間的に、さらに古い言葉」への憧れは、私の中では、「空間的に、できるだけ遠いところ」へ行ってみたいという願望と表裏一体になっていて、それが大学院時代のフランス留学につながったのだと思います。 

 本書の第1章は、1961年、仏政府の給費留学生試験に合格して11月からの新学年に間にあうようにフランスへ向かった一ヶ月の船旅の記録。横浜から香港、サイゴン、シンガポール、コロンボ、ボンベイ、とアジアの国々へ寄港し、スエズから地中海に入って目的地のマルセイユまでの船中の日々−食事、船員たちや国籍も様々な船客の様子、寄港地で見たことや留学生仲間の小さな突発事件などを、東京にいる家族に書き送った手紙で、後年の回想ではなく、Eメイルも携帯電話もなかった時代のリアルタイムでの記録です。

 第2章と第3章では、ギリシャ文学のなかでもとくに私が心ひかれた叙事詩人ホメロス(前7−6世紀頃)と弁論作者リュシアス(前5−4世紀)とを、船室の小さな丸窓を通して広大な海と空に見入っていた時の気持で、見ています。ホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』はギリシャ文学最古最大の作品で神話に深く根ざしており、そこには黄金製のAIロボットも登場します。また、アテネ民主政時代の、事件の当事者が法廷で行う告訴・告発や弁明のための弁論作品は、言葉によって人を説得する、その話術の組立て方のお手本でもあります。

 第4章では、本が旅をする話と、こちらが本の周辺を旅する話とを、ヨーロッパや日本で経験した、国際古写本学会での見聞や図書館での調査をもとに記しています。本の細部の観察によって何百年も昔の手写本や初期印刷本のできあがる過程が目の前に蘇ってくる喜びと、本がどういう経緯で今ここにあるかを追究する面白さと、この二つは微妙に絡み合っています。本書末尾に入れた、国会図書館にある中世ラテン語写本の来歴調査は、東京とブリュッセルの三人の研究者による共同作業の経過報告ですが、推理小説のようだという感想も寄せられて、著者としては恐縮しながらも、とても嬉しく思っています。

(ほそい・あつこ=成蹊大学名誉教授・西洋古典学)