著者からのメッセージ

納富信留:『ギリシア哲学史』

「ギリシア哲学史」を書くということ

 ギリシア哲学を研究する者として、その全貌を見渡していつか全体像を書きたいと思っていた。だが、専門研究の現場に立つと、日夜増える論文や研究書に目配りさえ追いつかず、その小さな領域をある程度徹底して論じることで手一杯な状況に気づく。「ギリシア哲学史」といった叙述はもはや個人の仕事ではない。そんな悲観的な認識が20世紀終盤から共有されてきた。近年刊行された哲学史の書籍は、多数の研究者がそれぞれの専門で分担章を執筆したものであり(中央公論新社『哲学の歴史』、講談社選書メチエ『西洋哲学史』、ちくま新書『世界哲学史』など)、それらは優れた研究成果を適切に示してくれるが一般読者には違和感も大きい。章を超えた有機的な連関や統一性がなく、大きく異なり、時に正反対の解釈が並ぶ。編著の哲学史では各主題の記述は執筆者に任されていて、いいところ取りの寄せ集めになってしまう。私は常々、読者としてそのような物足りなさを感じると共に、執筆に加わる者としてもどかしさも感じていた。「ギリシア哲学史」というタイトルで前6世紀から後6世紀までを論じる通史を書きたいという志は次第に強くなってきた。そうしてようやく前半部をまとめたのが、筑摩書房から上梓した『ギリシア哲学史』である。

 だが、今「哲学史」を書くことには方法論的な問題が二点ある。一つは「資料」の扱い、もう一つは「哲学史」という論述のあり方である。

 第一点について、本書では序論に「ギリシア哲学資料論」をおき、古代著作の写本伝承と近代校訂、パピュロスや金石文の資料、そして「断片集」の編纂について概説した。プラトンやアリストテレスら著作集が伝承した哲学者は別として、どの編集資料をどう使うかは決定的に重要である。本書が扱ったうちで前5世紀までの範囲は、ディールス&クランツ編『ソクラテス以前の哲学者断片集』(DK)に代わり標準となったラクス&モスト編『初期ギリシア哲学』(LM)を基本として、哲学者ごとに最も信頼できる最新の資料集を合わせて参照することにした(LMについては本ホームページ「新刊書フォーラム」のリヴィオ・ロセッティ氏書評「ディールス・クランツ(DK)からラクス・モスト(LM)へ」2017年8月を参照)。個別の資料集と研究書はここ数十年で格段に充実しており、それらを十分に活用することが求められる。いくつか例をあげよう。

 エンペドクレス(第9章)については1990年代の「ストラスブール・パピュロス」公刊によって研究状況は大きく変わったが、それを取り入れたインウッドの資料集第2版(第1版ではパピュロスは含まれず)だけでなく、それに先立つライトの詳細な注釈を合わせて用いた。ソクラテスの弟子アンティステネス(第22章)については、デクレヴァ=カイッチの資料集を受けたジャンナントーニ『ソクラテスとソクラテス派遺文集』(SSR)に証言が収められたが、決して使い勝手が良いとは言えないため、英訳と詳細な注解が付されたプリンスの資料集を主に参照した。また、ヴェールリ『アリストテレス学派断片集』(SA)にまとめられた資料では、ポントスのヘラクレイデス(第29章)に新たな英訳つき資料集が出て格段に接近しやすくなった。

 どの資料集を基本にするかで哲学者の見え方も大きく変わる。人物同定に問題があるアンティフォン(第18章)では高畠純夫『アンティフォンとその時代』の日本語資料集が役立ったが、断片配列が問題になるヘラクレイトス(第5章)ではカーンを、アナクサゴラス(第13章)ではサイダーのやや勇足の校訂版をカードの資料集と合わせて用いるなど、哲学者ごとに状況と課題はまちまちである。また、全領域で研究蓄積に恵まれているわけではなく、アカデメイア第3代学頭のクセノクラテス(第28章)には方向を定める指針となる研究がまだないという憾みが残った。逆に、著作と証言が膨大にあり研究の進捗が著しいテオフラストス(第31章)には、今後の検討課題が明瞭となった。

 資料にとことんこだわる検討方針は、一般の読者には一見煩瑣で意味のないものに見えるかもしれない。資料批判は専門家の仕事であり、その結果だけを要領よく解説すれば十分だと、読者は思いがちである。だが、論拠となる断片や証言は誰が報告しており、それをどう解釈すると特定の見方になるのかという手続きが示されないと、ただ「この哲学者はこんな説を唱えた」と断定しても実はなんの意味もない。学問的に不誠実であるだけでなく、その内容が誤っていたり不十分であったりしても理由がわからないからである。とりわけ初期ギリシア哲学について資料的検討のない解釈の提示は、意義を判断する以前のファンタジーに過ぎない。その意味で、ギリシア哲学を学ぶことはすなわち資料に通じてそれを正しく解釈することであるというメッセージを、本書は実践的に示したつもりである。論述を検証する人のために95ページ分の参照注を付したのはそのためである。

 もう一つ厄介な点は、そもそも「哲学史」をどう書くのかという問題である。個別の哲学者や哲学著作について検討して論じることはできるとして、それらを一つのまとまり、あるいは流れとして叙述する意義はどこにあるのか、どうすれば可能かという問題である。アリストテレスやヘーゲルの哲学史に基づいた発展図式はもはや現場では通用しないと言われてきたが、いざ哲学史を辿る叙述にとりかかると、気づかずにそういった見方が忍び込んでしまう。つまり、未熟で不十分な段階から完成へという展開での位置づけであり、とりわけ初期哲学の解釈が顕著に直面する陥穽である。また、プラトンやアリストテレスに批判された同時代人たちに適正な評価を与えることも多大な困難を伴う。ソフィストたちに加えてアンティステネス、イソクラテス、スペウシッポス、クセノクラテスらの扱いは、本書の大きな特徴と言えるだろう。後世から見て加えられた恣意的な整理を排するには、その時代に内在して哲学者一人一人の思考に寄り添うことが必要となるが、それを積み重ねて哲学史にするにはどうすべきかが改めて問われるのである。

 私はこの問題に対して、哲学史とは哲学者が発して取り組んだ「問い」に対して同時代や後世の哲学者たちが応答して思索した、いわば対話的なつながりであり、そうしてなされた哲学という場の共有であると考えた。そこでは「哲学」は一つではなく複数の問いが行き交う複合的な言論の場であり、応答は単に答えを与えるだけでなく、その問いを組み替え、新たなスタイルを作りだす誘因となる。このような設定で哲学史を描くために採用したのが「列伝体」というべき形式であった。これは個人の哲学者を背景や人物から著作までの全体で捉え、哲学者間の応答関係をできるだけ明確にすることである。そこでは、ディオゲネス・ラエルティオスが師弟関係でつないだ系譜という整理は避け、むしろ横の繋がりや問題を共有する場と時代を浮かび上がらせる努力を払った。

 古代の哲学者を一人一人その時代に生きて「生きた言葉」を語った思索者として再現するためには、著者である私自身が彼らと徹底して対話する必要があった。それはギリシア哲学者たちの問いを現在の哲学の問題として引き受け、それに応えるための現代の言葉を要求する。その意味で本書は思想に関わる歴史記述というより、これ自体が古代と現代との対話であり、それに促され触発されてなされた哲学の営みである。私が向き合った古代の言葉において、読者がさらにその問いを受け取って自らギリシア哲学者たちとの対話に参加してくれれば、著者として何よりの喜びである。

 以上の試みが果たしてどこまで成功しているかは専門研究で今後精査されるはずであるが、私としてはヘレニズム期とローマ期を扱う『続ギリシア哲学史』を、数年かけて書き上げたいと思っている。

納富信留(東京大学:notomi@l.u-tokyo.ac.jp)

書誌情報:納富信留『ギリシア哲学史』(筑摩書房、2021年3月)