訳者からのメッセージ

 山田道夫:ポルピュリオス『ピタゴラス伝・マルケラへの手紙・ガウロス宛書簡』

 このたび西洋古典叢書から拙訳『ポルピュリオス ピタゴラス伝・マルケラへの手紙・ガウロス宛書簡』を出していただいた。ポルピュリオスを勉強し始めたのはもう十数年前か、あるいはひょっとすると二十年ほども前のことだ。新プラトン協会のほうで世界思想社の「学ぶ人のために」シリーズの一冊として『新プラトン主義を学ぶ人のために』という本を出すことになって、編者のお一人であった山口義久さんにポルピュリオスの章を担当するように声をかけられたのがきっかけである。だがポルピュリオスのことは殆ど何も知らなかった。そのさらに二十年ほど前の大学院生のときに種山恭子先生の演習に参加して山口さんたちとプロティノスを読んでいた頃、ロウブのアームストロングによる対訳や中公の世界の名著の中の水地先生の訳で「プロティノス伝」を眺めていたぐらいのことである。だからとりあえずパウリ-ヴィソワのボイトラーによるポルピュリオスの項をコピーして読むところから始めた。手元にあったネオプラトニズム関係の本を何冊か取り出して、ポルピュリオスについて紹介・解説する箇所を読んだりもして、ポルピュリオスの現存著作についての大体を頭に入れたうえで、『センテンティアエ』と『肉食の忌避について』を読み始めたのである。私が勤務していた大学はごく小さな女子大であったが、図書館にはパウリ-ヴィソワもロウブ、ビュデ、トイプナーの各叢書も入っていた。弘前に移られるまで在任しておられた種山先生が、文科省の助成金を得て整備しておられたのであり、思えばじつに有難いことであった。当時はキリスト教関係や英米文学の教員にも借り出して使う人がいた。だが少子化によるここ十数年の学科改変やカリキュラム変更で人文教養系の教員はどんどん居なくなって、私が退職したあとは使う人は誰もいない。この一年余は新型コロナの感染防止対策で現役の教職員以外は学内に入れてくれないので、私も書庫に入れず、今回の仕事に関しても何かと不便を感じたが、あの本たちが誰の手にも取られず暗い書庫に放置されていると思うとなんだか淋しく、また悲しい。

 さて『新プラトン主義を学ぶ人のために』の「ポルピュリオス」は四、五十枚の短いものだったし、「ポルピュリオスの哲学とはどういうものだったのか」、「彼がプロティノスのうちにとどまりつつ、そこから歩み出て、自己を形成し、さらに自分よりあとのものを生んだ、そのありようはいかなるものであったのか」といったテーマを掲げたものだったので、『ピタゴラス伝』も『ガウロス宛書簡』も読まなかった。『ピタゴラス伝』はプロティノスへの師事以前の著作だとするビデの見解(『ポルピュリオスの生涯』)が一般的であったし、ボイトラーはピタゴラス伝説と新ピタゴラス派の資料として価値があるとしか言っていなかった。そして『ガウロス宛書簡』については、ボイトラーは校訂者カルプフライシュのガレノスではなくポルピュリオスの著作だとする議論を斥けて、ポルピュリオスの著作とするには強力な疑念が残るとしていたからである。

 だが「マルケラへの手紙」はもちろん読んで、大いに惹きつけられた。老年にさしかかった哲学者が、生成界に落ち込んだ魂の苦境を認識し、身体およびその情念から魂を浄める修練を積み、神へと向き直って昇り道を進めと妻を教え励ますという設定が興味をそそったのである。『センテンティアエ』や『肉食の忌避について』と同様のポルピュリオス哲学の基本線に沿っているようにも思われた。そこで『新プラトン主義を学ぶ人のために』の原稿を何とか書き終えたあと、『マルケラへの手紙』を訳出しようとしたのだが、半分弱の16節ぐらいまで何とか訳文を作ったものの、後が続かなかった。マルケラとの結婚をめぐる市民たちとの軋轢とか、結婚十か月で妻と子どもたちを残して旅立たねばならなかった「ギリシア人のための責務」とかは想像を掻き立てるけれどもよくわからないし、また文章も私にはややこしくて、行きつ戻りつしてやっと文意が理解できたかなというような箇所がいくつもあり、これは参考文献を揃えてちゃんと勉強しなくてはと思ったからであるが、結局そんな勉強はしないまま放置していたのである。

 そういうわけで西洋古典叢書からポルピュリオスの『マルケラへの手紙』と『ピタゴラス伝』を出すという話になったとき、水地先生の翻訳と詳細な解説が既に出ていたし(晃洋書房、2007年)、自分としては『ピタゴラス伝』は無くもがなのおまけのような感じだった。だが『マルケラへの手紙』だけでは短すぎて本にはならないし、古いナウクのテクストでも2010年のビュデ版でもこの二作が一緒に収載されているので、まあ仕方ないと思って引き受けた。ところがあとになってこれでもまだページ数が足りないので『ガウロス宛書簡』もということになった。2011年に出たウィルバディングの本を教えられ、カルプフライシュのテクストもコピーして送ってもらい、長い休眠から起き出して二度目のポルピュリオスの勉強にとりかかった次第である。

 あまり気乗りしなかった『ピタゴラス伝』と『ガウロス宛書簡』だったが、それぞれにポルピュリオスの著述として違和感なく興味深く読めた。太宰の『走れメロス』の末尾に記された「古伝説とシルレルの詩より」の「古伝説」がヒュギヌスの『神話伝説集』にあることは聞いていたが、元々の典拠が『ピタゴラス伝』58節に記されたアリストクセノスの『ピタゴラスの生涯』における報告であり、ピタゴラス派の友情にまつわる話であり、あの暴君がディオニュシオスⅡ世であったことを知ったときは、やはり古典は読んでおくものだと妙に感じ入った。『ガウロス宛書簡』に至っては、『肉食の忌避について』などと同等同質の議論が楽しめて、ウィルバディングの説得的な考証とはまた別のレベルで、ポルピュリオスの著作として読み進めている自分に気付いて驚いた。昔、水野有庸先生が岩波のプラトン全集の『エピノミス』を訳されて、プラトンの著作としての真偽論の対象であるこの対話篇の真作であることを解説で力説されたとき、そういう議論以前に、水野先生ならご自分が訳出されたというだけで真作だと断じる十分な理由になるのかもしれないなどと思ったが、ひょっとすると自分もそんな状態に陥っているかもしれない。

 今回の翻訳では、前回の『ピレボス』のときとは違って、クリュシッポスやセクストス・エンペイリコスやプルタルコスなど西洋古典叢書中の著作を取り出して学ぶということが多くあって、あらためて古典叢書の有難味を感じた。これらの労作や水地先生のイアンブリコス『ピタゴラス的生き方』が日本語で読めなくて、いちいち自分でギリシア語テクストにあたっていたら、いくら尻を叩かれても、この訳書はこのようにはできてはいなかっただろうと思う。

(山田道夫)

書誌情報:山田道夫訳、ポルピュリオス『ピタゴラス伝/マルケラへの手紙/ガウロス宛書簡』(京都大学学術出版会 西洋古典叢書、2021年4月)