訳者からのメッセージ

國方栄二:エピクテトス『人生談義』(上・下)

 エピクテトス翻訳の仕事を始めたのは2019年の正月からで、すでに何度かエピクテトスについて書いているが、全部を訳すとなるとそれなりの準備がいる。仕事場の同僚の和田利博氏に出講大学にあったビュデ叢書のSouilhéによる『語録』(Épictète Entretiens)の4冊本を借り出してきてもらい、これを底本にした。『要録』(『提要』)は大学図書館にあるBoterの新しい校訂本(Epictetus Encheiridion)を参照することができた。これで底本は揃ったが、参考文献のほうは、昔と違って古い時代の注釈本は現在ではインターネットで随時閲覧が可能である。とりわけ役立ったのがSchweighäuserの古いEpictetae Philosophiae Monumentaの5冊本で、ラテン語との対訳のほかに詳細な注解とGlossaryを含んでいる。

 エピクテトスの(というより、師の言葉を収録したアリアノスのと言ったほうが正確だが)文章にはいくつか目立った特徴がある。語彙についてはLiddell/Scottの辞書には収録されていないか、1回のみの用例(hapax legomenon)があったりして、訳語の選定に迷うことが時々あるが、そんな場合にSchweighäuserが役に立った。ほかの特徴としては縮小辞(diminutive)の多用がある。τὸ σωμάτιον(Dim. of σῶμα)、σιτάριον(Dim. of σῖτος)、ἀγρίδιον(Dim. of ἀγρός)などがそうで、それぞれ「ちっぽけな体」「わずかな穀物」「わずかな土地」などの訳をつけたが、正直なところうまく対処できなかったことのほうが多い。さらに、文体で目立つのは前置詞の連続があるが、これは師のエピクテトスが聴講者に対して畳みかけるような表現を好んだからだと思われる。II 16.41では、ὑπὲρ(のために)が3度登場する。それで、「いいかね、人口に膾炙(かいしゃ)した言葉だが、幸福であるために、自由であるために、気高い心をもつために、今の自分の思いを捨てよ」というような訳にしたが、思うように訳せなかったところも少なくない。

 文体の話はこれくらいにして、エピクテトスの哲学の話をすると、ストア派、特に、ローマ時代のいわゆる後期ストア派に属しているが、先行するセネカ(ルキウス・アンナエウス・セネカ)が博引旁証の議論を展開するのとはおよそ異なっている。エピクロス派に対しても、セネカなどはエピクロスをしばしば、しかも好意的に引いたりしているが、エピクテトスの場合には単なる「肉」の愛好者にすぎない。エピクテトスは長く読み継がれていることからも分かるように、その文章にはわれわれの心の琴線にふれたものが少なくないのだが、同時代の哲学者への批判(例えば、『語録』I 5, I 23, II 20)などをみると、議論の展開はやや乱暴と言うか、粗雑だという印象は否めない。逆に、キュニコス派のシノペのディオゲネスの評価(III 22)などを読むと、かなり理想化され過ぎているように思われる。その意味では賛否は分かれると思われる箇所がところどころにあるが、そうした例をひとつ紹介しよう。

 『語録』第三巻の最初の章を読むと、「おしゃれについて」という表題がついている。エピクテトスの学校に、女の子にもてたいばかりに、髪の毛をなでつけ化粧した青年がやって来る。ところが、先生はその青年に何も教えない。「何で口をきいてくれないんですか」と尋ねる青年に、先生は「おしゃれ」談義をする。それがこの章である。読んでみると、要するに、自然本来のままであれということである。男が脱毛して、すべすべした肌でいてどうするんだ、まるで女の子じゃないか。青年は先生の言葉に反論して、「不潔なままでいたくはありませんからね」と言う。これを受けて、先生は「それじゃ、清潔であろうとライオンはたてがみを引っこ抜くかい。雄鶏はトサカを引っこ抜くかい」とやり込める。

 こういう問答をするエピクテトス先生の言い分はわかるとしても、「自然のままが一番」で神様があたえてくれた体をいじるな、という主張は、現代のわれわれにはなかなか受け入れがたいところがある。私がこの章を読んで興味をもったのはこの青年の化粧法である。本書は古代ギリシア語(コイネーと呼ばれる共通語)で書かれているが、時代はローマの帝政期に入っている。この時代の男性の化粧法であるが、化粧法といっても何かを塗るよりもまず毛を抜くのだ。「脱毛」である。ローマ時代の毛抜きはラテン語でウォルセッラ(volsella)という。プラウトゥスのローマ喜劇『クルクリオ』(577-8)で遊女屋の主人カッパドクスは、

At ita me volsellae, pecten, speculum, calamistrum meum
bene me amassint meaque axitia linteumque extersui
ならば、わが毛抜きよ、櫛よ、鏡よ、カール鏝(ごて)よ、
わが鋏(はさみ)よ、手拭いよ、どうかおれを守ってくれ。(小川正廣訳)
と言っているが、ここでは男性の化粧道具が並べられている。カール鏝とは今のヘアー・アイロンのことである。ここには出てこないが、男性用のクリームもあった。ウォルセッラで脱毛したあとに塗るクリームをプシーロートゥルム(psilothrum)と言う。理髪店にいくと、毛抜きの後にこれを塗ってくれる。公衆浴場でもこのようなサービスをする者がいたらしい。

 一方、哲学者の出で立ちはと言うと、髭をはやし(髭は哲学者のシンボルだった)、すり切れた外套(ギリシア語でトリーボーンτρίβωνと言う)と決まっていた。風呂もそうしばしば行ったわけではない。当時は公衆浴場が各地にあり、冷水浴、温水浴、サウナと完備していたから、エピクテトスの哲学学校にやって来た人は、ごく普通の青年だったと思われるが、哲学者には奇異に思われたのだろう。ギリシア時代に続き、ローマの時代になっても哲学はブームであったから、政府の高官などもしばしば哲学学校を訪れたが、こうしたやりとりは日常茶飯事であったのだろうと思われる。

(國方栄二)

書誌情報:國方栄二訳、エピクテトス『人生談義』上・下(岩波書店(岩波文庫)、2020年12月、2021年2月)