訳者からのメッセージ

竹下哲文:ゲルハルト・H・ヴァルトヘル著,内田次信・竹下哲文・上月翔太訳,『西洋古代の地震』

異常なるふつう

本書は,古代地中海圏における地震を包括的に扱う論考である.時間的・空間的に遠く隔たったギリシア・ローマ世界と本邦との間には実は高い地震活動度という共通項があることを考えると,こうした書物を日本の読者に紹介できることは大変に意義深いことであると思われる.

邦題が『西洋古代の地震』と簡潔にまとめられているため,本書の原題を改めて紹介すると,それは『地震 異常なるふつう――前4世紀から後4世紀の文献資料に見る地震活動の受けとめ方』(Erdbeben, das aussergewöhnliche Normale : zur Rezeption seismischer Aktivitäten in literarischen Quellen vom 4. Jahrhundert v. Chr. bis zum 4. Jahrhundert n. Chr. )となっている.この中で,地震という自然現象が「異常なるふつう」(das aussergewöhnliche Normale)という言葉によって捉えられている点は注目に値する.原著者は,これを「地震現象が単に表面的に異例であるだけ,ということを強調する表現」(邦訳5頁)として,

地震は起きるものという確実性と,前もってそれを予測することはできないという不可性との間の矛盾は,人々の受けとめ方や地震との付きあい方を大きく規定するのである.(邦訳5頁)
と述べている.自然のプロセスの一部として言わば「ふつう」に生じる地震は,しかしその影響を被る人間にとって常に「異常」な事態として現れてくるのである.

この異常事態に直面した人間の反応は,原著者によれば,「不安」(Angst)によって支配される.そしてそこから,地震現象への対応方法として二つの路線,すなわち,合理的・「科学的」方向と非合理的・宗教的方向とが生れてくる.前者はイオーニアーの自然哲学者たちの探究に端を発し,アリストテレースによって決定的な水準へ到達せしめられたものであり(本書第3章で論じられる),後者は大地を揺るがす神ポセイドーンという神話にはじまり,ローマ世界における凶兆としての地震とその祓除に典型的に現れた,地震を超自然的存在との交流の契機とするものである(こちらは第4, 5章で扱われる).いずれもそれぞれの仕方で地震に対する不安の除去を試みるが,地震を尋常な自然現象として説明することを目指すか,それともその例外性に意味づけと解釈を与えることを目指すかという傾向の違いがある.ここにも,人間との関わりを通して見た地震が持つ「異常なるふつう」という複合的性格が作用しているのである.

ところで,共訳者の一人である本稿の筆者が翻訳作業を通してとくに面白く感じたのは,上に挙げた地震に対する古代人の二つのアプローチが,時として相接近するように思われる局面がある点である.たとえば,前述のアリストテレースは,地震の原因論のみならず実際の地震事例の分類にも着手しており,その分類範疇として揺れの方向に着目したが,その際に水平方向の揺れと垂直方向の揺れの二つを大別している(本書61頁).そこで用いられている語彙はそれぞれτρόμος(邦訳では「震え」)とσφυγμός(同じく「拍動」)である.これらの言葉は地震分類のためだけに作り出されたわけではなく,通常の語彙としても震動を,それも病気や恐怖のために人体に発生する揺れを表したものである点は注目に値する(LSJのそれぞれの項を参照).かくてこの類推にしたがえば,病に冒された人体がその異常を知らせるため身震いや動悸という徴候を伴うように,大地体の震動は人間と超自然的存在との関係がかき乱されたことを表す徴として捉えられる.古代における合理的地震学の画期をなしたアリストテレースの理論が基盤として有するイメージは,予兆としての地震という非合理的・宗教的地震観との共通項ともなっていたと考えられるのである.

さて,「異常なるふつう」という冒頭の概念に立ちかえろう.地震は今日もっぱら自然科学の研究対象とされる.しかし,今なお我々の知識水準が,この自然現象の法則性を余すところなく把捉しそれを完全に予測可能な――驚き恐れるに及ばない「ふつうな」――ものとするに至っていないという点で,地震が見せる「異常なるふつう」という様相は古代以来渝らずに続いていると言える.地震災害の逃れがたい不安と脅威に晒された古代人の思索と行動の記録を考察対象とする本書が,同じリスクを抱える現代の日本の読者に関心をもって読まれることを訳者の一人として願いたい.

(竹下哲文/京都大学ほか非常勤講師)

書誌情報:ゲルハルト・H・ヴァルトヘル著,内田次信・竹下哲文・上月翔太訳,『西洋古代の地震』(京都大学学術出版会,2021年2月)