訳者からのメッセージ
五之治昌比呂:ヒュギヌス『神話伝説集』
なにかの作品を翻訳していてギリシア神話の言及が出てきた場合、註を付けるなら、神話辞典で調べるなどしてその話の一般的な内容を簡単に記述するのが普通であり、それで十分である。では翻訳する作品がその神話辞典のようなものであったら、いったいどのような註を付けたらよいのか。本書『神話伝説集』はそのような作品である。
解説に書いたように、この作品には既訳があり、しかも文庫である。私がもうひとつ同じような訳書を作っても意味がないのである。当初から、それぞれの話にどのような異なるバージョンがあるのかを紹介するような註を付けることは考えていたが、邦訳が出版されたことによって、自分の訳書には詳しい訳註を付けることが必須になったと感じた。
ギリシア神話の知識が乏しかった私は、それがどれほど大変なことなのかがわかっていなかった。註を付ける作業はまったくの手探りで始めた。フレイザーによるローブ版のアポロドロス『ギリシア神話』に詳しい註があることは知っていたので、まずはこれと、グリマルの神話辞典で話の典拠を知り(基本的に作品の箇所しかわからない)、それらを読んで内容をメモするという作業を行なった。しかし、要約とはいえ、これをすべて註に書いたらとんでもない量になってしまう。それほどギリシア神話の異説というのは多いのである。途中から方針を改め、註の記述はできるだけ簡略化することにした。拙訳の註を見れば「諸説ある」で片付けていることが多いのに気づかれるだろう。
どこかの時点でティモシー・ガンツのEarly Greek Mythの存在を知った。これは素晴らしい本で、私がやるべきことをはるかに詳細に行なっている。以後はほとんどこの本に頼りきりになり、註を作る作業は格段に楽になった。この書がなければ、おそらく拙訳は出版にこぎ着けていなかったであろう。
実際にこのとおりにしたわけではないが、註を付ける作業の例をこの場を借りて紹介してみたい。ステュンパロスの鳥(ステュンパリデス)を例にする。ステュンパロスの鳥は、ふつうはヘラクレスが十二の功業のひとつとして退治した、アルカディアの湖に住む鳥たちのことである。ヒュギヌスはヘラクレスの功業を語る30話にこの話を書いているが、アルゴ船の物語の一エピソードである20話のタイトルも「ステュンパリデス」となっている。アルゴ船の一行はコルキスに向かう途中、黒海の島で羽根を矢のように発射する怪鳥に襲われる。一行はこの鳥たちをなんとか追い払う。20話はそのようなエピソードである。その話はかつてどこかで読んだ記憶もあるが、「この二つの鳥たちは同じものだったっけ?」という疑問が浮かぶ。
さて、20話の註を考えるとすると、まずはアポロニオスの『アルゴナウティカ』を見るべきであろう。岡道男先生の翻訳があるのですぐに参照できる(現在は堀川宏氏による西洋古典叢書の新訳で読むことができる)。ここでも黒海の島の鳥たちは羽を発射する鳥になっており、ヒュギヌスと一致することがわかる。しかし、その註釈書は持っていないのでそれ以上のことは調べられない。また、アポロドロス『ギリシア神話』のアルゴ船物語のところにはこのエピソードがないので、フレイザーのローブ版の註を利用することもできない。
ヘラクレスの功業についてはフレイザーが使える。註にはアポロニオス、ディオドロス、ストラボン、パウサニアス、クイントス、ツェツェス、ヒュギヌス、セルウィウスが典拠として挙がっている。それらを一つ一つ見ていくことになるが、ツェツェスはすぐには読めない(現在は「INTERNET ARCHIVE」などのウェブサイトでうまく検索すれば読める)。とりあえず最初の五つを読んでみると、鳥を追い払うだけか、鳥を殺すか、何を使って追い払うか、といったことに異同があることがわかる(これはヘラクレスの30話の註に書くことになる)。しかし、アルゴ船物語との関係は見えてこない。ヒュギヌスは30話で、ヘラクレスが退治した鳥も羽根を発射する鳥としている。20話のタイトルが「ステュンパリデス」であることとあわせて考えると、ヒュギヌスはヘラクレスの功業の鳥とアルゴ船物語の鳥とを同じものと考えているようである。しかし、上の五つの典拠にはヘラクレスの鳥が羽根を発射するというような記述はない。ヒュギヌスの説が特異なものであることが明らかになる。
セルウィウスはヒュギヌスのように、ヘラクレスが退治した鳥たちは羽根を発射し人や動物を殺していたとしており、アルゴ船物語の怪鳥との混同の可能性がうかがえる。少なくとも羽根についてはヒュギヌスだけが奇妙な説を述べているわけではなさそうである。では、このように二つの鳥たちを同一視している古い典拠はないのだろうか。当然それを探さなければならない。ロッシャーの大きな神話辞典(これも現在は「INTERNET ARCHIVE」で「roscher lexikon」などと検索すればすぐに読める。当時は図書館に行ってコピー)にはステュンパリデスとアルゴ船物語との関係をきちんと説明するような記述はない。ここで行き止まりである。
ガンツの本を入手した後はこれを参照することができた。ガンツはアルゴ船物語との関係については、エウリピデスとアポロニオスが黒海のアレスの島に住み羽根を矢のように発射する鳥について述べていることを指摘し、「その鳥とステュンパロスの鳥たちとを実際に同一視している作家がいるのかどうかは不明である」としている(ヒュギヌスには触れていない)。「エウリピデス」というのは『プリクソス』断片838のことで、エウリピデスが『プリクソス』の中でそのように言っているという古註の記述である。岩波書店の『ギリシア悲劇全集』はこの断片を採用していないので、拙訳の註でも言及しなかった(書き忘れただけかもしれない)。古註の記述を信用するなら(実はあまり信用できない)、アルゴ船物語の鳥については古くから羽根を発射するという伝承があったことになる。
ガンツは壺絵などの図像についても紹介してくれている。ここでは説明は割愛するが、便利なウェブサイト「THEOI GREEK MYTHOLOGY」でヘラクレスを描いた前6世紀の壺絵を見ることができる。ヘラクレスが退治している鳥は羽根を発射するような鳥には見えない。
ガンツが不明だとしているのだから、古い典拠はなさそうである。すると、あるていど明確に同一視を示している最も古い典拠はヒュギヌスなのではないかということが見えてくる。いつどうやって気づいたのかは覚えていないが、『アルゴナウティカ』の古註(上記『プリクソス』断片を伝えるもの)には、もっと明確な同一視の記述があることを見つけた。これは20話の補註に書いている。残念ながら古註のその箇所には典拠が示されていないので、この説がどれくらい古いものなのかがわからない。
もちろんこれは擬似的なもので、実際の作業はこのように整然と進んだわけではない。同様の作業を多くの「話」について行なっていたために、註の量は多くなり出版が遅れに遅れたのであった。といっても私の註はまったく不十分なものである。より詳細な情報を得るには、ガンツをはじめ様々な文献を参照する必要がある。訳者としては、せめて本書がそのための足がかりになることを願うのみである。
五之治昌比呂(大阪大学日本語日本文化教育センター教授)