訳者からのメッセージ
安井萠:リウィウス『ローマ建国以来の歴史6──ハンニバル戦争 (2)』
カンパニア? カプア?
リウィウス『ローマ建国以来の歴史』第6分冊の刊行にあたり、一つだけ苦労話をさせていただこうと思う。
翻訳に際しては、訳語の選択に迷うことが少なくないが、なかでも最後まで頭を悩ませたのがCampanusという言葉の訳し方であった。CampanusはCampania(イタリア西南部のカンパニア地方)とCapua(同地方最大の都市カプア)、2つの地名の形容詞形である。これを「カンパニアの」(あるいは人を表す名詞として「カンパニア人」)と訳すか、「カプアの」(あるいは「カプア人」)と訳すかは、そのつど文脈により判断するわけだが、実際常にすっきり決められるとは限らない。
例えば、ノラ人とアケラエ人が恐れたCampaniとはカンパニア人なのか、それともより限定的にカプア人だけを指すのか(第23巻19章4)。ハマエに集まった大勢のCampaniとはどちらなのか(同巻第35章13)。私は一応それなりの確信をもって前者をカンパニア人、後者をカプア人と訳したが、しかしもしかするとそうではないかもしれないという気持ちが、心の中にくすぶる。Campanusの訳には、多かれ少なかれこうした割り切れなさが伴うのである。
参考のため各国の現代語訳を見ると、ほとんどがCampanian(英)、Campanien(仏)、kampanisch/ Kampaner(独)と、ラテン語の綴りそのままの形で訳されている。これは、その意味するところがカンパニアなのかカプアなのか、判断を読者に任せられる便利な訳し方である。私もできれば訳語を「カンパニアの(カンパニア人)」に統一したかったのだが、しかし日本語の「カンパニア」にカンパニアとカプアの両義を込めるのは難しい。やはり訳者の責任の下、訳し分けるしかない。かくして、本当にあれで良かったのかと、いまだにモヤモヤしているわけである。
CampaniaとCapuaは言語的に密接なつながりのある言葉である。前者から後者が由来したとも、その逆とも言われる(リウィウスは前の方の説を採っている、第4巻第37章1)。したがって両語の形容詞形が同じなのは不思議なことではないのかもしれないが、とはいえローマ人自身はそのことに不便を感じなかったのだろうか? カンパニアとカプアを混同して困るということはなかったのだろうか?
安井萠(岩手大学教育学部准教授)
書誌情報:安井萠訳、リウィウス『ローマ建国以来の歴史6──ハンニバル戦争 (2)』(京都大学学術出版会(西洋古典叢書)、2020年9月)