著者からのメッセージ
瀬口昌久:『ルクレティウス 『事物の本性について』――愉しや、嵐の海に』 (書物誕生 あたらしい古典入門) 、岩波書店、 2020/8/5、小池 澄夫・瀬口 昌久 (著)
イメージの喚起力と合理性
ルクレティウスを読んで誰しもが瞠目するのが、詩のイメージの喚起力の迫真性と叙述の合理性であろう。想像力と論理を駆使することによって、原子と空虚という目に見えぬミクロの世界から、無数の原子から無限の広がりをもつ無数の宇宙が形成され、その解体と再生を繰り返す原子論的宇宙論が展開される。常識を超えたその世界像が、私たちの日常的な経験や生きている自然世界の観察にもとづいて、合理的な説得性をもって描き出される。しかも、驚かされるのはその詩があらゆる領域の現象を包括しているように思われることである。人間の感覚・睡眠・夢・恋愛の生理学や遺伝の仕組みまでも提示し、人間社会と文明の発展を描き出し、神々の仕業とされていた雷鳴や嵐や地震や噴火、そして疫病までも原子と空虚によってことごとく合理的に説明し尽くしている。
『事物の本性について』全篇を支配する自然哲学の合理的精神と詩の想像力は、詩人や哲学者だけではなく、近代の科学者にも大きな影響を与え続けた。しかし、本書のプロローグでは、日本ではルクレティウスを通読した人はあまりいなかったのではないかとされ、例外的にすぐれた読者として物理学者の寺田寅彦が挙げられている。そこにはさらにもう一人の物理学者の名前をいそいでつけ加えなくてはいけないだろう。それはルクレティウスの詩を訳した岩田義一である。私が本書でルクレティウスの訳文の基礎としたのは、岩波文庫の樋口勝彦訳(1961年刊)ではなく、岩田義一・藤沢令夫訳(1965年刊)である。その訳書は、岩田義一・田中美知太郎の共著として出された『ルクレチウス・宇宙論』(1959年刊)をもとに改訂されたものであり、岩田が書いたその訳書の解説には、「岩田が訳し、田中が校訂した」とある。
訳者の岩田は、京都の旧制第三高等学校を経て東京帝国大学理学部物理学科に進み、理論物理学者として大きな業績を残した。「静磁場における電子、およびイオンの運動に関する研究」により、1964年度の仁科記念賞を受賞している。東大の物理学教室で講師をしていた時代には、後にノーベル物理学賞を受賞することになる南部陽一郎を指導し、彼を素粒子論の研究に導いたとも言われている。物理学研究のかたわら岩田は古代ギリシア・ローマ文化に関心を深め、田中美知太郎に師事して、ギリシア語・ラテン語を学んでルクレティウスの翻訳を行なった。日本で最初のルクレティウスの本格的な翻訳が、すぐれた理論物理学者の手によってなされたことは特筆すべきことであろう。
岩田はなぜそこまで古代ギリシア・ローマの文化に惹かれたのであろうか。理論物理学の最先端の研究と西洋古典の結びつきには、寺田寅彦の影響があったのだろうか。岩田が東大の助手であったころ、京大教授の湯川秀樹が東京大学の兼担教授を引き受けていた。岩田は素粒子研究で湯川の研究と関わりが深かった東大物理学教室の小平邦彦の研究室で助手をしていたことから、兼担教授の湯川の助手も勤めていた。したがって、岩田の西洋古典とのつながりには湯川からの影響もあったのかもしれない。古代ギリシアにも深い関心を寄せた湯川の短いエッセイ「詩と科学」(1946年)には、次のような内容の文章がある。
詩と科学は遠いようで近い。出発点が同じだからだ。どちらも自然を見ることと聞くことからはじまる。薔薇の花の香をかぎ、その美しさをたたえる気持ちと、花の形状をしらべようとする気持ちの間には、大きな隔たりはない。しかし薔薇の詩をつくるのと、顕微鏡を持ち出すのではもう方向が違っている。実験器具や数式のつづく世界では詩の影も形も見えない。科学者は詩を忘れた人のように見える。しかし、科学者は実験室のかたすみで思いがけなく詩を発見する。数式の中に、目に見える花よりもずっと美しい自然の姿を見出すことがある。詩と科学とは同じところから出発したばかりでなく、行きつく先も同じなのではなかろうか。それが遠く離れているように思われるのは、途中の道筋だけに目をつけるからではなかろうか。どちらの道でもずっと先の方までたどって行きさえすれば近寄って来るのではなかろうか。そればかりではない。二つの道は時々思いがけなく交叉することさえあるのである、と。
ルクレティウスの詩は、そのような二つの道が一つになりうることを物語る。小さな本書が、その世界への扉をたたく一助になることを願っている。
瀬口昌久(名古屋工業大学大学院教授)
書誌情報:『ルクレティウス 『事物の本性について』――愉しや、嵐の海に』 (書物誕生 あたらしい古典入門) 、岩波書店、 2020/8/5、小池 澄夫・瀬口 昌久 (著)