訳者からのメッセージ

高橋宏幸:オウィディウス『変身物語 1, 2』

オウィディウス『変身物語』とウィルス

この春に『オウィディウス 変身物語2』を刊行することができ、昨年5月刊の1と合わせて作品全体を京都大学学術出版会西洋古典叢書にそろえられた。そのあいだに『ヘーローイデス』の拙訳も平凡社ライブラリーの1冊に加えていただいた。ずいぶん昔になるが、1994年に『祭暦』を訳出(国文社アレクサンドリア叢書)しているので、これでオウィディウスが神話を主題とした3作品すべて手がけたことになる。慶びとしたいところだが、世の中はそういう状況ではない。そこで、この一文も、オウィディウスにならって、と言うとまったく釣り合わないたとえになるが、当初の目論見を変えることにした。以下には、ウィルスに関わる話題を記してみたい。

『変身物語』の中でvirusという語は5回使われている(2.800, 4.501, 9.158, 11.776, 14.403)。もちろん、この語がいまのウィルスという意味で古代に使われることはなく、「粘液」、「毒液」、「毒」というような含意で用いられた。その一方、感染性の死病を表すラテン語としてpestisがある。言うまでもなく、ペストの由来をなした語である。『変身物語』の中では第7巻と第9巻で2回ずつ現れる(7.553, 764, 9.177, 200)。いずれにも「悪疫」という訳語を当てたが、それぞれが意味する中身は必ずしも同じではない。第9巻の2例はいずれもヘーラクレースの肉体を滅ぼしたレルナの水蛇の毒であるので、virusと同義に使われている。実際、この毒を浸み込ませた衣を英雄が羽織った場面ではvirusが用いられている。それに対して、第7巻の用例2つは興味深い使い分けをされている。

これらの用例は、アテーナイがクレータ王ミーノースとの戦争に際してアイギーナ王アイアコスから支援を得るための使節としてケパロスと2人の従者を王のもとに送ったとき、ケパロスを歓迎したアイアコス王の語る物語(7.518-660)と、ケパロスが王の末息子ポーコスに語る物語(7.690-862)にそれぞれ現れる。つまり、一連のエピソードの中で、いずれも登場人物による語りの中に見られる。しかし、2つの用例の含意は異なり、使われ方は対照的である。ケパロスはテーバイを襲った狐の怪物をpestisと呼んだ。家畜にもたらした被害の大きさを比喩的に表現した点で文学的な使い方と言える。それにとどまらず、詳細は省くが、「悪疫」とはいうものの、狐と狐を追いかけた猟犬がともに最後は石に変身する夢物語的な内容がケパロスの物語全体の悲劇的情調を引き立てる効果が認められる。対して、アイアコスはアイギーナを襲って国を滅ぼしかけた疫病にpestisという言葉を使っている。そこで、こちらは言葉そのままの使い方で、文学的な含みはない。また、この疫病の猛威がアイアコスによって長々と語られることになるが、疫病の叙述は、ウェルギリウス『農耕詩』第3巻に先例があり、ウェルギリウスはルクレーティウス『事物の本性について』第6巻の叙述に強く影響され、ルクレーティウスはトゥーキューディデース『歴史』第2巻に記されるアテーナイの疫病を範としている、というように文学伝統の中で何度も取り上げられてきた。つまり、文学的題材としての疫病は使い古しの陳腐なものとも見られる。

ケパロスとアイアコス両人の物語に見られるこのようなpestisの対比はそのまま二人の物語そのものについてこれまで学者が下してきた評価と呼応している。ケパロスの物語が誰からも、どこをとっても申し分なしと見なされるのに対し、アイアコスの物語に感心する人は少ない。つまり、あたかもpestisという話のお題をもらって、言葉そのままに疫病を語った物語は物語そのものがpestis(この場合は「大災難、破滅」)になったように見える。

さて、翻訳の点から言うと、pestisをすべて「悪疫」としたのは結果的によかったように思う。しかし、virusについては防疫対策が十分だったか心もとない。5例のうち3つは毒蛇の毒という意味で、とくに問題ないが、残り2つはどちらもnocens「有害な」という修飾語をともない、変身を引き起こす働きを備えている。その1つ(2.800)は「嫉妬」がアグラウロスに吹き込む心の毒で、ついには彼女を石に変える。拙訳はnocens virusを「悪疫」と訳出した。次行でvenenum「毒」と言い換えられるので、「毒」という訳語は使いにくい一方、一人の人間の体内ではあるけれども、各部位が徐々に感染して病苦が広がるような叙述がなされているので、pestisに用いた訳語を当てたのはそう的外れではなかったかもしれない。対して、もう1つ(14.403)はキルケーが人間を獣の姿に変えるのに用いた魔法の液体で、そこでのnocens virusを拙訳は「有害な粘液」とした。ずいぶんと散文的に聞こえる気がするものの、このあとにsucosque veneni「毒薬の汁」と続くので、正直なところ他にしようがなかった。もちろん、「悪疫」はこの文脈には合わない。かくして、単語ならともかく、同じ2語の言葉で、しかも変身に関わるという点でキーワードかもしれない語句に異なる訳がついてしまった。またしてもまったく釣り合わないたとえになるが、ソフトウェアのプログラムにウィルスを仕込んでしまったような感じがする。少なくとも、訳全体に検索をかけても、これらは同じ語句としてヒットしない。ちなみに、このnocens virusという表現をオウィディウスは『美顔法』38でも、さかりのついた雌馬からとった媚薬の意味で使っている。そんなものに頼らず、美しく顔のお手入れをすることで男心を引きつけよ、というのがそこでの文脈である。キルケーの魔法の液体となんとなくイメージが重なるところがあって興味深い。また、この表現の古典期での用例はオウィディウス以外には見られなかった。

ところで、新型コロナという名称が示すように、ウィルスは変性するらしい。そのことをオウィディウスが知っていたら、きっと、第15巻でのピュータゴラースの教説の中に加えていたに違いない。また、ウィルスの害に対する予防策は、そのウィルスを無害にしたものを体内に入れることで防御態勢を整えることらしい。毒を制するためにそれに対抗できる毒を用いる点はキルケーの魔法の液体にも類似したところがある。獣に変身させる液体に「薬」(medicamina 14.285. 拙訳は「毒薬」)という言葉も使われるのはある種の遊びと思われる一方、人間に戻すために用いられるのは「前より上等な液汁」(melioribus sucis 14.299)である。「何の草のか分からない」と言われるが、同時に「逆さまにした杖」で叩いたり、「前の呪文を逆に戻す呪文が唱えられ」もするので、nocens virusに対して、言ってみれば、innocens virus(この場合、innocensが「無垢」「清廉」といった通常の語義から能動的に「害、汚れを除く」という意味合いをもつ必要があるが、能動的含意の用例としては、ウェッレイユス『ローマ世界の歴史』1.11.6に、国家を守っての政敵との闘争について「浄化」を含意するとも解しうる場合がある)として解毒の働きをしている。ちなみに、『オデュッセイア』では、キルケーがオデュッセウスの部下たちを獣の姿から人間に戻すとき、それぞれに別の「薬」(φάλμακον 10.392)をかけるとすぐに「破滅の薬」(φάλμακον οὐλόμενον 10.395)の毒性が除去された。それどころか、彼らの姿は以前よりずっと美しく大きくなりさえした、とされている。covid-19にもこれほどの即効性をもつ特効薬が早くできればよいのにと願わずにいられない。それが実現したなら、自分の心の中では今年をovid-20として祝うことができるだろうと思っている。

高橋宏幸(京都大学)

書誌情報: