書評

小野有五:ピエール・アド著,小黒和子訳『イシスのヴェール 自然概念の歴史をめぐるエッセー』

ヘラクレイトスのフュシスをめぐる西欧思想史

本書は、コレージュ・ド・フランスの古代哲学教授であったピエール・アドが、2010年の逝去の6年前に残した全8部、23章からなる大著の翻訳である。紀元前5世紀前後、ヘラクレイトスが、エフェソスにあったアルテミスの神殿に奉納した書物の中にあった箴言 “φύσις κρύπτεσθαι φιλεῖ”(フュシス クリュプテスタイ フィレイ) が本書を貫くキーワードである。この箴言は一般に「自然は隠れることを好む」と訳されるが、本来は「誕生の原因はまた死の原因となる」という意味であったらしい。もしそうであるなら、本来フュシスは、「死のヴェール」をまとっていたのである。1章だけからなるこの第I部がそう名づけられているように。

西欧の「自然」は、このフュシスを源とする。英語のPhysics の語源でもある。第II部(第2~3章)ではフュシスが「自然」という意味を持つに至った過程が、ヒポクラテス、プラトンやアリストテレス、ストア派などを通じて分析され、第III部(第4~8章)では、ヘレニズム期、とくに新プラトン主義が分析される。アレキサンドリアのフィロンによって、フュシスは「真理」の同義語のようになり、ものの「本性」(自然)という意味合いを帯びるようになった。新プラトン主義は「自然」は最も低位の「神」と位置づけ、「神話」によって語るべきものとした故に、キリスト教世界にあって異教の神々を生き長らえさせ、その影響は少なくとも18世紀まで続いた、とアドは分析している。

第IV部(第9章)「自然のヴェールを外す」では、「隠された自然(本質)」を覆う「イシスのヴェール」を剥ぎとろうとする人間の態度には、プロメテウス的な態度とオルフェウス的な態度の2つがある、という基本的な考えが提出される。この2つが、本書の核心となる概念である。前者は科学的手法、後者は詩的手法であり、第V部(第10~12章)「プロメテウス的態度―――技術による秘密の発見」では、前者が分析される。それは、中世から近代にいたる西欧での科学史でもあり、そのまま優れた科学思想史としても読める部分である。続く第VI部(第13~18章)「オルフェウス的態度―――言論、詩、芸術による秘密の発見」は、後者の分析であり、プラトンの『ティマイオス』から、ポール・クローデルの『詩法』、ロジェ・カイヨワの『自然と美学』にまで至る、「ヴェールの彼方にあるものへの言語による接近」を跡付けたこの部分はもっとも読みごたえがある。

このあとに続く第VII部( 第19章)に至って、本書のタイトルともなっている「イシスのヴェール」が論じられる。エフェソスのアルテミスと古代エジプトのイシスとの同一性が、多くの図版を使いながら、アビ・ワールブルグを髣髴とさせるような図像学手法で解釈され、それらをもとに、「イシスのヴェールを外すという主題」が、17~18世紀の自然科学の書物には欠かせない役割を果たしてきたことが結論づけられるのである。

第VIII部(第20~23章)「自然の秘密から実存の神秘へ ――畏怖と感嘆」は、本書の最後を飾る重要な部分である。ここでは、第VII部までの結論をひっくり返すように、そもそもイシスは、剥ぐべきヴェールなどもっておらず、目の前にあるイシスを見ること自体が重要なのだ、とするゲーテに始まる新しい思想の流れが、シェリング、ニーチェ、ハイデガー、ウィトゲンシュタインに連なるものとして、見事に描かれる。とくに、最後の第23章が興味深い。

ゲーテがそれまでの「イシス=自然」観を完全にくつがえし、「自然」の真理はヴェールに覆われてなどおらず、目の前にありのままの自然としてあるのだとした、というアドの指摘は、本書のなかでも、もっとも鋭いものであろう。近代地理学の祖のひとりとされるアレクサンダー・フォン・フンボルトの5年間にわたるアンデスの探検をもとに1805~07年に書かれた『植物地理学試論:赤道地域の自然図付き』(Essai sur la géographie des plantes, accompagné d’un Tableau physique des régions équinoxiales)は、ゲーテに献呈された。その献呈の辞が書かれた頁には、詩の守護神アポロンが、「自然」のシンボルとしてのイシス・アルテミス像からヴェールを外そうとしている寓意画が載せられ、アポロンの足元にはゲーテ(1790) “Versuch die Metamorphose der Pflanzen zu erklären” (『植物のメタモルフォーゼ』)が置かれていた。フンボルトは、ゲーテの著作が自然の真理を明らかにすると称賛したのである。本書のまえがきにあるこの記述から、フンボルトを祖とする景観生態学の研究者でもあった評者は本書に引き寄せられた。「フュシス」をめぐる2500年の西欧思想史をあますところなく論じた本書はまた、イシスのヴェールを剥ぐことにのみ価値を置くプロメテウス的な近代科学への批判ともなっている。

もう一つの重要な指摘は、第21章における「フリーメーソンのイシス」への言及であろう。18世紀末のフリーメーソンであったカール・レオンハルト・ラインホルトは、プルタルコスによって、イシス=自然が自らを語ったとされる「私はかつて在り、いま在り、これからも在るであろうすべてのもの」という言葉を、シナイ山でヤハウエがモーセに自らを語った言葉「Ἐγώ εἰμι ὁ ὤν 私は<われ在り>というもの」と同一視した。アドは、その解釈は行き過ぎとしているが、どちらの神も自らの名を語らない点は共通し、こうしてイシスはヤハウエと同一化され、至高の神、「無名」の神となったとの指摘である。アドはまた、ヤハウエと同一化されたイシス=自然の意味を、スピノザの「神すなわち自然」と結びつけたヤン・アスマンを評価している。スピノザという補助線を引くことによって、イシス=自然は「一なるもの」となり、プロティノスの「一者(ト ヘン)」に連なり、「神」と「コスモス」は同一化されるのである。

「無名」を「むみょう」と読めば、そこからは、大乗仏教における「真如」や、名づけようのない存在につけられた「仮名(けみょう)」という概念が浮かび上がるであろう。それはギリシャ哲学と東洋哲学を、イスラム哲学を仲介として結び付けた井筒俊彦の分析につながり、さらには、『神名論』を書いた6世紀のディオニシオス・アレオパギテースが想起される。ヤハウエも「神」も、それはすでに顕れたものに過ぎず、言葉によって表現されたものの名にすぎない。その背後には、人間には名づけることのできないもの、ディオニシオス・アレオパギテースが「Θεαρχία テアルキア(神性原理)」と呼ぶしかないとした「仮名(けみょう)」にすぎないものが隠れているのである。このように考えると、第23章の最後にウィトゲンシュタインが引かれるのは極めて自然なことであろう。「世界が在るというそのこと」は、「表現できずただ示すことしかできない」からである。

訳者の小黒和子氏は英文学者である。哲学書とも言える本書を平易かつ正確に訳され、89ページに及ぶ原注で引用される夥しい書物についても原著や訳書を的確に示されたことは驚嘆に値する。評者も専門は地理学であるが、西洋古典学会の方がたに第一に読んでいただきたいと思い、紹介させていただいた次第である。

小野有五(北海道大学名誉教授;地理学、景観生態学)

書誌情報:ピエール・アド著(小黒和子 訳)『イシスのヴェール 自然概念の歴史をめぐるエッセー』 法政大学出版局:叢書ウニベルシタス 1109(2020年1月)383p. +89p. (5000円+税)