訳者からのメッセージ
周藤芳幸:パウサニアス『ギリシア案内記2──ラコニア/メッセニア』
パウサニアスと旅する現代のラコニアとメッセニア
パウサニアス『ギリシア案内記』第二分冊は、ペロポネソス半島の南部を占めるラコニアとメッセニアを扱っている。そこで、古代の様子についてはパウサニアスの叙述に譲り、ここではパウサニアスを手にこれからラコニアとメッセニアを旅しようとする方のために、これらの土地の現在の魅力を、ごくかいつまんで紹介することにしたい。
かつて、アテネからラコニアやメッセニアを訪れるには、アルゴス平野からアルカディアに向かうつづら折りの山道を、延々と登って行かなくてはならなかった。ぼろぼろのレンタカーのギアチェンジとハンドル操作に悪戦苦闘しながらも、アルゴス湾の碧く輝きわたる海が次第に遠ざかり、荒々しい尾根の岩肌が眼前に迫ってくると、どこか未知の世界に分け入っていくような興奮を覚えたものである。やがて峠を越えてアルカディア高原に入り、トリポリで南に分岐し、さらに延々と田舎道を走って山間を抜けたところで、ようやく目の前には瑞々しいラコニア平野とスパルタの街並、そして彼方にどっしりと立ちはだかるタイゲトス山脈が姿を現す。それは、いつ見ても、息を呑むほど圧倒的な風景だった。パウサニアスが辿ったのは、この道よりもさらに南のアストロスから西へ向かう山道だったようであるが、やはりパウサニアスも、スパルタを訪れたときには、セラシアのあたりで道端に腰を下ろし、眼下に広がるラコニア平野とタイゲトスの雄姿に見とれながら、一息ついたことであろう(もちろん、パウサニアスの常として、そのような旅の感想はテクストのどこにも書かれていないのであるが)。
しかし、現在(2020年)では、ペロポネソス半島をカラマタまで縦断する高速道路(A7、通称モレアス)と、スパルタに通じるその支線(A71)が完成したことにより、ラコニアやメッセニアへの旅は、はるかに容易になっている。このルートでは、アテネから西に向かってペロポネソス半島に入ると、まずはアクロコリントスの麓からほぼ一直線に南西に進んでいく。そして、アルテミシオンの長いトンネルを抜け、トリポリを越えていったんメガロポリ(古代のアルカディアの有力都市メガロポリスであるが、現在では巨大な発電所がランドマークとなってしまっている)まで進んでから南東に下ることになるため、残念ながらタイゲトスの偉容を正面(東)から眺めることはできない。一方で、この高速道路を使うと、メガロポリスとスパルタが地理的には意外に近かったこと(直線距離で約45キロメートル)を印象づけられ、それはそれで新鮮な発見でもある。
スパルタ(現代地名はスパルティで、パを強く発音する)は、典型的なギリシアの田舎町である。その中心は、市街を南北に貫くパレオログー通りと東西に延びるリクルグー通りとの交差点のあたりで、その南西側に入ったところに中央広場が、南東側に入ったところには美しい庭園をそなえた考古学博物館があり、ホテルもそのあたりに点在している。パレオログー通りは、近郊のミストラス(世界遺産となっている中世都市ミストラ)で戴冠したビザンティン帝国の最後の皇帝コンスタンディノス・パライオロゴスに、また、リクルグー通りはもちろん古代スパルタの伝承上の国制改革者リュクルゴスにその名をちなんでいるが、現在のスパルタ市内には、そのようなスパルタの過去の栄光を伝える遺跡は少ない。その中にあって、一見の価値があるのが、1909年に完成した新古典様式の瀟洒な市庁舎に面した中央広場であり、夕暮れ時になると、大勢の人々が群れをなしてヴォルタ(三々五々連れ立って歓談しながら広場やプロムナードを何度も往復するギリシア独特の散歩)に興じる姿を目にすることができる。
さて、スパルタから西へタイゲトスを横断してメッセニアのカラマタにいたる険しい山道は、ギリシアでもっともスリリングな景観の連続する魅力的なドライブルートであるが、パウサニアスと同様にスパルタから南に向かうと、海際にレストランが並ぶ港町ギシオ(古代のギュティオン)を経て、ディロスの鍾乳洞(パウサニアスは言及していない)で知られるアレオポリに出ることができる。このあたりはマニと呼ばれるギリシアの秘境で、ギリシア独立戦争でも活躍した気性の荒いその住民(マニアテス)は、かつては古代スパルタ人の末裔を自称していた。ここからメッセニア湾沿いに北上すると、やがて広々とした平野の海辺に広がる都会が現れるが、これが現在のメッセニアの中心市カラマタである。
空港や大学もあるペロポネソス半島屈指の都市カラマタは、1986年9月の震災で大きな被害を受けたが、現在ではすっかり復興を遂げ、街は活気に溢れている。カラマタといえば、レストランやホテルが点在する海沿いの通りも魅力的ではあるが、ぜひ訪れたいのは、旧市街にあるメッセニア考古学博物館である。ここは、メッセニア各地から出土したさまざまな遺物を解説とともに展示する近代的な装いの博物館で、メッセニアの歴史の豊かさを十分に伝えてくれる。この博物館の目の前は小さな広場になっており、そこに外壁のくすんだ古い教会があるが、この聖使徒(アイイ・アポストリ)教会こそ、1821年3月23日、マニアテスを率いるペトロス・マヴロミハリスが、その後のギリシア独立戦争を牽引することになるセオゾロス・コロコトロニスや「トルコ人喰い」のあだ名で知られるニキタラス(ニキタス・スタマテプロス)と合流し、カラマタをオスマン帝国の支配から解放した「記憶の場」に他ならない。
カラマタのあるパミソス川の流域には、パウサニアスも訪れたトゥリアやメッセネの遺跡があるが、考古学的により興味深いのは、そこから西へ一山越えたピロス(古代のピュロス)地域である。パウサニアスは急ぎ足で通り過ぎているが、ここには現在、アーノ・エングリアノスで発掘されたミケーネ時代のピュロス宮殿の遺跡や、その出土品を展示するホーラの博物館、さらに1827年の海戦で知られるナヴァリノ湾に面したピロス(ナヴァリノはそのイタリア名)のネオカストロなど、訪れるべき場所は少なくない。
そこからイオニア(オメガではなくオミクロンのイオニア)海に沿って単調な国道を北上し、メッセニア戦争の逸話にも登場するネダ川を越えると、そこはもはや(少なくともパウサニアスの地理区分では)エリスである。ということで、ここから先については、第三分冊が刊行されたときに、あらためて案内することにしよう。
周藤芳幸(名古屋大学)
書誌情報:周藤芳幸訳、パウサニアス『ギリシア案内記2──ラコニア/メッセニア』(京都大学学術出版会西洋古典叢書、2020年1月)