訳者からのメッセージ

北見紀子:クイントス・スミュルナイオス『ホメロス後日譚』

 近現代におけるクイントス・スミュルナイオスの評価は低い。文学史の解説や書評を読んでも、「(ホメロスの)拙い模倣」「作品が残ったのは主に古物研究としての必要から」等、酷評が並ぶ。今世紀に入る頃からようやく再評価の兆しが見られるようになった。武具を身に着けて戦場へ向かう無名戦士とその家族を描いたくだり(第9歌113―124行)は血なまぐさい戦闘描写の合間に一抹の温かな人間味を感じさせる。オリーブの収穫を描いた比喩(同198―201行)も鮮やかな印象を残す。おそらくは作者の観察した日常生活のひとこまであろう。ホメロス叙事詩にも日常を描いた比喩はあるが、これらはクイントスの独自性をうかがわせる筆致である。

 しかし、こうした再評価の動きはあっても、細部にかかわるものがほとんどで、各エピソードを起こった順に並べただけという批判には反論のしようがない。クイントスがラテン文学の影響を受けたとしたら、ウェルギリウスから何を学んだのであろうか。ラテン文学の影響と言っても、原典を読んだのではなかったかもしれない。私自身にも、明確な答えはまだ出せていない。しかし、それを言うならばクイントスはホメロス叙事詩の構成の妙も模倣してはいないのである。そのあたりがクイントスの限界であったのか、クイントスが生きていた時代の文学の潮流が年代記的な叙事詩への回帰だったのか。その両方でもあるように思われる。

 わかったようなことを書いてしまったが、これだけの長編を全訳したのは初めてで、アタマの持久力とでもいうべきものが必要なことを痛感した。題名に「ホメロス」と入っているし、読者にはどうしてもホメロス叙事詩の知識が要求されるが、どのあたりまで註を入れるべきかずいぶん迷った。最初にお世話になった編集者の安井睦子さんはこうしたことをきめ細かく指導してくださった。生来の遅筆に加え、両親の介護でますます執筆が滞っていた折、当時の編集長であられた小野利家さんは上京の際わざわざ会いに来てくださり、刊行を急ぐ事情を説明して私を激励された。お二人には完成した訳稿をお見せすることでご恩に報いられればと思っていたが、脱稿したときにすでに泉下の人となられていたことを知った。遅ればせながらお二人のご冥福をお祈り申し上げるとともに、お手数のかけ通しだったことをお詫びする次第である。あとを引き継がれた國方栄二さん、和田利博さん、校閲してくださった先生にも、拙い訳稿を隅々まで読み、多くの誤りを訂正してくださったことに改めて感謝の意を伝えたい。

北見紀子

書誌情報:北見紀子訳、クイントス・スミュルナイオス『ホメロス後日譚』(京都大学学術出版会西洋古典叢書、2018年10月)