訳者からのメッセージ

西村賀子:グラツィオージ『オリュンポスの神々の歴史』

バルバラ・グラツィオージ『オリュンポスの神々の歴史』を訳し終えて

 おかげさまでこのたび白水社より『オリュンポスの神々の歴史』の邦訳を上梓することができました。著者のBarbara Graziosiの名前は、ホメロスを勉強している方なら一度は目にされたことがあるのではないかと思います。なかなかおもしろい本を書く研究者です。

 翻訳のきっかけは、The Gods of Olympus: A Historyが白水社から送られてきたことでした。これを日本語に訳するだけの価値があるかどうか判断してほしいと依頼されたのでした。2013年10月、原著がイギリスで発刊される直前のことでした。大急ぎで通読してみるととてもおもしろかったので、翻訳に値すると思いますというお返事を出したところ、ではどこがどうおもしろいか、どんな読者を対象とするかなどを書いてください、それを編集会議にかけますというお話でした。そして数日後、編集者さんが会議で奮闘してくださったおかげで、ゴーサインが出たという次第です。

 その頃、私は『エレゲイア詩集』の翻訳できりきり舞いしている状態でしたので、この本を自分で翻訳するだけの余裕はありませんでした。白水社の編集者も当初はプロの翻訳家を起用して監修を私に依頼するというおつもりだったのですが、諸般の事情から、この同じ学会サイトに寄稿されている西塔由貴子さんに翻訳をお願いすることになりました。そしてさらにその後いろいろな事情から、私も翻訳を担当することになりました。

 さて、本書の内容ですが、以下のレジュメをお読みいただくと、どんな本か手っ取り早くご理解いただけると思います。

 本書は、オリュンポス十二神の古代からルネサンスまでの旅と変容の跡を丹念にたどり、神々が古代ギリシアの宗教儀式の対象から人間の空想力の象徴へと進化する過程を、具体例を挙げながら探求する良書である。原書(英語版)は2013年11月に刊行され、2014年にはドイツ、オランダ、イタリア、ポルトガルでそれぞれの翻訳版も刊行された。
 オリュンポス十二神は古代ギリシア・ローマ特有の信仰対象であり、中世キリスト教世界では異教として完全に駆逐されたが、イタルア・ルネサンスにおいて復活したと一般に考えられている。このような通説を、グラツィオージはみごとにくつがえす。本書はオリュンポスの神々とエジプトのファラオの類似性を指摘し、アレクサンドロス大王のインド到達の背後にディオニュソス神を凌駕したいという野望があったことを語り、ローマが土着の信仰対象とは異なる神々をいかにして同定・習合したかを論じ、皇帝崇拝とキリスト信仰の奥にオリュンポスの神々が潜んでいたことを述べる。
 簡潔に要約すると、本書は、オリュンポス十二神がヨーロッパの歴史を通してずっと何らかのかたちで生き続けてきたことを一貫して主張し、各時代・地域ごとに具体例をとおして詳述しているのである。たとえば、ゼウスが修道士の姿でフィレンツェの「花の大聖堂」の正面を飾るというような驚くべきかたちで神々は異教世界を生き抜いたのみならず、シルクロードに沿ってはるかかなたの中国の洞窟神殿にまで達する一方、近代の植民地主義によって南アメリカ大陸にも渡り、J. L. ボルヘスの夢にも登場するといった具合である。
 本書には、生き生きとした記述のほかにも特筆すべき点が多いが、とくに中世からルネサンス期にイスラム世界が果たした役割に対して目配りがきいている点をあげたい。従来の西洋史の一般的視点ではイスラムの重要性は軽視されがちだったが、本書は近年の歴史学の動向を踏まえ、この点に関する叙述も充実している。また、著者がイタリア出身であるせいか、ルネサンスにおける古典古代の「復活」についてはとりわけ詳しい。たとえばルネサンスも微細に見ると、芸術と文学では事情が異なっていることや、ペトラルカとボッカッチョがいかに大きな影響を及ぼしたかなどにも、十分な紙幅が割かれている。従来のルネサンス関連書籍にはしばしば欠落していた知見が、本書から得られるに違いない。
 読者としては古代ギリシアやローマ、イスラム、ルネサンス期のイタリア、さらに近代ヨーロッパなどの文化・歴史・宗教およびそれらの相互の影響など、広く人文科学一般に興味・関心のある方々が想定される。やや専門的な記述も含まれるため、ある程度の知識を有する読者を要求するが、高度に専門的というほどではなく一般書の範疇に収まるレベルにとどまる。また各3章6部で構成され、各章が短い。そのため全体の分量が多いが、それに比して非常に読みやすく、読者は本書をとおして知的満足を得られるであろう。
 最後に本書の評価と翻訳の意義について述べると、本書に通底するのはオリュンポスの神々はなぜ膨大な時間と広大な空間を転身しながら生き延びることができたかという関心であり、それは当然のことながら、人間とは何か、神とは何か、宗教とは何かという根源的な問題と連動する。現代が古代ギリシアに負っているものがいかに大きいか、また、私たちが今日それをどうデフォルメしたかたちで内面化しているかが、本書を通して見えてくる。以上のような理由から、現代人の依拠する歴史的基盤を再認識させてくれる契機として本書を高く評価する。

 以上が、本書を一読した直後に書いたレジュメですが、その後、長期にわたって何度もテクストを丹念かつ微細に読む翻訳作業を終えたのちも、上に書いたような思いは変わっていません。

 一言で言うと、本書は神々の転身という長い旅を語る書物です。本書を訳し終えたのち、それにつけてもやはりホメロスやヘシオドス、そしてペイディアスをはじめとする彫刻家たちや陶器画の画家たちは偉大だったのだなあと、しみじみ感じました。結局、神々を擬人的に表現するというきわめてギリシア的な方法こそが、オリュンポスの神々のこの恐るべき長寿の究極の秘密だと思ったからです。

 ギリシア・ローマの哲学・歴史・文学・美術に興味をお持ちの方々の関心にかならず応えうる本です。ぜひ一度、ご覧になっていただければ幸いです。

西村賀子(和歌山県立医大教授)

書誌情報:西村賀子監訳、西塔由貴子訳、バルバラ・グラツィオージ『オリュンポスの神々の歴史』(2017年2月)