著者からのメッセージ
沓掛良彦:『ギリシア詞華集4』
『ギリシア詞華集』全訳の後に・老耄書客妄語
2年近く苦しみながら、無我夢中で日夜翻訳した『ギリシア詞華集』の最終分冊(4)が、このほど手許に届いた。これでようやく全巻完結である。詩数無慮4500篇、全4冊総数2600頁におよぶ本を手にして、やはり感慨無きを得ない。「古稀を過ぎ頭も呆けかかった身で、われながらよくもまあ訳しに訳したものだわい」というような妙な感慨にとらわれ、自分でもいささか呆れている次第である。その昔若い頃にフランソワーズ・サガンのインタビューを聞いた折に、「あなたはご自分の小説を読むことがありますか?」という問いに対して、「ええ、時々は読みますよ、まったく他人の書いた作品としてね」という彼女の答えを聞いて不思議に思ったものだが、その後自分でも物を書いたり翻訳したりするようになって、それが実際にそのとおりであることを実感するに至った。自分のやった仕事であっても、いったん手許を離れ本の形になってしまうと、不思議なことに、もはや自分のものとは感じられなくなってしまうのである。今回の『ギリシア詞華集』にしても、最終分冊は出来立てのほやほやだというのに、出来上がった4冊の本を手にすると、かなり昔に、今の自分とは違う別の人がやった仕事のような気がするのはなぜであろうか。昔の自分に、「いやはやご老体、御苦労なことでしたな」とでも言いたい気分である。
中務哲郎氏から『ギリシア詞華集』翻訳の御依頼があったのが、確か2013年の西洋古典学会の折のことで、実際に翻訳にかかったのは、それから2ヵ月後のことであった。今過去のカレンダーを見てみると、2013年の8月4日に第1巻の翻訳に着手し、2015年4月10日に『ギリシア詞華集』最終巻である第16巻の解説を書き終えている(第1分冊が刊行されたのは、それから3ヵ月後の7月末のことである)。つまり翻訳に費やしたのは実質約1年8ヵ月ほどであった。その後「総説」を書くために、あれこれ研究書などを覗いて勉強せねばならず、苦心して全体の解説という形で「総説」を書き終えたのが、2015年9月末のことである。つまり丸2年と1ヵ月の間、『ギリシア詞華集』にかかわり没頭していたことになる。振り返ってみると、無我夢中の裡に過ぎた、老骨にとってはなんとも苦しくつらい日々であった。よくも途中で倒れなかったものだと思う。と同時に、長いこと横文字屋として過ごしてきた私にとって、二度とない貴重な体験でもあった。こういう機会を与えてくださった中務哲郎大先生(氏はその昔私が京大古典学研究室で内地研究員としてお世話になっていた折の、指導教官であった)には、深く感謝せねばならない。
実は2009年にアベラールとエロイーズ『愛の往復書簡』の上梓を最後に(これも翻訳自体を終えていたのは、2007年頃のことだが)、横文字を捨て、もともと名乗る資格もなかった「古典学」の廃業をも宣言して、陶淵明、西行、一休、良寛などを読んで専ら老残の日々を送っていたのである。それが『ギリシア詞華集』の翻訳という思いがけない仕事によって、忘れかけていたギリシア詩の世界へ、一気に引き戻されたのであった(2014年から2015年にかけて出たエラスムス関係の著訳書は、それ以前から筺底(と言っても酒の空き箱だが)で眠っていた原稿が本の形になったにすぎない)。東洋回帰以来ギリシア語もおぼつかなくなっており、翻訳に際して参照した羅、英、独、仏、伊、西語などの翻訳や研究文献を読む力も落ちていたので、かつて『ギリシア詞華集』の選訳を世に問うたことがあるとはいえ、翻訳にとりかかった折には不安でいっぱいであった。何よりも懼れたのは、もはや古稀も半ばの老骨の身で頭も呆けかけているし、衰老の身で、はたして命あるうちに全16巻4500篇の詩を、無事全訳できるかということであった。
しかし引き受けた以上は、なんとしてでも全訳を果たしたいとの一念で、死にもの狂いで、猛スピードで翻訳にかかった。その間、こんなことは詩を愛する者のすることではない、作者にも申し訳ないとの自責の念に責められ、ただ横文字を縦にしただけで、訳詩と呼べるレベルに達していない文字通りの拙訳を愧じながらも、ともあれ頭が呆け切る前に、命あるうちに全訳を果たしたいという思いに駆られて、憑かれたようになってひたすら翻訳したのである。一日に詩を何篇も翻訳するというあるまじき行為が続いたのは、われながら許しがたく、また恥ずかしいかぎりである。
こうしてともあれ、ひとまず全訳は果たした。サガンではないが、本の形になったものを、一読者として読んでみると、不満だらけである。「もっとうまく訳せたはずじゃあないか、なんだいこの翻訳は。訳詩の体をなしていないものが多すぎるではないか。反省しろ」と、訳者を𠮟りつけたくもなる。「へい、申し訳ありません。なにしろ明日をも知れぬ衰老の身で後がなく、翻訳を急ぎに急いだものですから」と、昔(と言ってもわずか2年足らず前のことだが)の私が、読者としての今の私に謝り、弁解している次第。
出来栄えの悪さは訳者である私自身が一番よく知るところだが、今はともあれ『ギリシア詞華集』というエピグラムの膨大な集積の全容を、ひとまずわが国の読者の前に提示できたことで、安堵もしている。私ならずとも、古典学者の誰かによって、いずれはなされねばならない仕事であったろう。これも「西洋古典叢書」というシリーズがあってこそ実現したものである。その一端を担わせていただいたことは、名誉に思う。拙い翻訳ではあるが、短期決戦で集中してやったから、なんとか訳了できたことも事実である。翻訳の生命は短い。いずれ私などとは比較にならない誌才学識ともに秀でた古典学者が、拙訳を叩き台として、すぐれた全訳をなさることであろう。その肥やしになれば、ともあれ最初に全訳の務めを果たした私としては満足である。その日が近いことを願うばかりである。
私の知るかぎりでは、ルネッサンス以来欧米でも『ギリシア詞華集』を個人で全訳したのは数人程度である。アジアにはおそらくいないであろう。欧米では、国際法の父として知られ、ラテン語詩人でもあったH・グロティウスが『プラヌデス詞華集』をラテン語訳しており(これは直訳に近いが、みごとな翻訳である)、ほかにはデュブナーによるラテン語訳、Loeb版のペイトンによる英訳、Tusculum叢書のベックビィによる独訳、ポンターニによるイタリア語訳などが個人全訳だが、ビュデ版の仏訳、スペインのGredos社から出ている西訳などは、全訳だが複数の訳者の手になるものである。自分の仕事を顧みて、よくもまあ4500篇も訳しも訳したり、とでも言うほかない。
なんとか全訳を果たしたという感慨はあるものの、正直に言って、満足感よりは後悔の念のほうが大きい。翻訳の完遂を急いだために、杜撰、疎漏なところが多く生じ、訳語を練り上げ、訳詩として彫琢するだけの暇も、余裕もまったくなかったというのが、偽らざるところである。言い訳になるが、これも全訳を果たすための、やむない仕儀であった。幸い編集を担当してくださった和田利博氏が実に優秀な古典学者で、初歩的な誤りを含む拙訳を丁寧に見てくださったので、なんとか出見苦しい誤りだけは避けることができた。和田氏には深謝あるのみである。今は他人の仕事のように感じられる『ギリシア詞華集』の拙訳が、はたしてどの程度ギリシアなどには関心の薄いこの国の読書人に受け入れられるだろうかという、不安を覚えてもいる。あらまほしいのは、「なるほど、『ギリシア詞華集』とは、およそかようなものか」と受け入れてくれる、寛容で奇特な読者である。
恐ろしいもので、出来栄えはともあれ全訳を終えて以来、精根尽き果ててしばらくは腑抜けのようになっていたが、「毒を食らわば皿まで」との気持ちに駆られ、『古代西洋万華鏡』と題する『ギリシア詞華集』についての漫筆本を書いてしまった(これは今年法政大学出版局より刊行予定である)。そればかりか、『ギリシア詞華集』翻訳を機に、かつて壮年の頃に親炙したことのあるギリシア抒情詩に関する関心が蘇ったと見え、今のうちに書いておかないともったいないなどというつまらぬ欲心が湧き、つい肩に力が入って、頼まれもせず上梓の当てもまったくないままに、1000枚を越える、東洋の一読書人によるギリシア抒情詩詩人論とでも言うべきものまで書いてしまった。身の程しらずの、われながら自制心のないことであった。いったんは「廃業」を宣言した世界に、のこのこと出戻ったような気恥しさを感じずにはいられない。
戦前のことだが、大相撲を引退して親方になっていた元力士が、現役力士たちに混じって全日本相撲選手権というものに出場したことがあるそうで、今の私はそれに似ているかもしれない(そればかりか、当の親方がその大会で優勝してしまったというから驚きである。学問の世界ではさようなことは絶対にありえない)。
目下の出版状況では、ギリシア抒情詩に関するこの原稿が、すぐに本になる可能性はまずなさそうだが、いずれ呆け老人が世を去った後、遺稿として世に出してくださる奇特な出版社が出てくることを祈るばかりである。蔵書をすべて売り払って上梓しようにも、貧弱な蔵書ではそれも叶うまい。いっそのこと生前葬をやって香典を集め、それを出版費用に充てようかとも考えたが、知名度の低い一貧士に集まる香典はたかがしれているだろうから、それもやはり無理かと思い直したところである。
こんなことを思うのも、やはり老人呆けによるものであろうか。
横文字屋としての最後の仕事も終わってしまったので、今では再び一休・良寛の世界に浸り、狂詩・戯文の世界に遊びながら、もはや無用の存在となった身に、一日も早く「お迎え」が来るのを待つばかりである。
おらが生、読んで訳してまた書いて、さてその後は死ぬるばかりよ
とは一休和尚の道歌のもじりなり。
(2017年2月)
沓掛良彦(東京外国語大学名誉教授)