新刊紹介

マルティン・チエシュコ著、平山晃司訳『古典ギリシア語文典』

『古典ギリシア語文典』紹介文

 古典ギリシャ語の学習者にとって待望の「文典」が今年(2016年)7月に出版された。全体は文字と発音,名詞,形容詞,副詞,代名詞,数詞,動詞,文章論,格の用法,前置詞の10章で構成され,アッティカ方言で書かれたギリシャ語テクストを読みこなすために「必要なすべての事柄」がまとめられている。体系的な構成と例示の仕方などから判断して,本書は初級文法を一通り学んだ学習者が全体を通読し,その後必要に応じて参照することを念頭に組まれている。

 初級文法を学んだばかりの学習者は多くの場合,記憶しなくてはならない膨大な事項を前にして立ちすくみ,あとどれくらいの事項を覚えればテクストを読みこなせるのかが分からずに途方に暮れる。あるいは理解と知識の不足から,辞書を引くことさえもままならないかもしれない。このような発展の途上にある読者にとって有益なものであろうとする意思が,各章の構成と説明の仕方を決めている。特徴的な点を幾つか見てみよう。

 まずは名詞と形容詞の章(第2-3章)について。そこでは一般的な「第1変化」から「第3変化」という分類(それがさらに下位区分されることになる)を採用せずに,名詞を20のタイプにフラットに分類する(伝統的な三分類はそれぞれのタイプを緩やかにまとめる目安として用いられる)。その意図はおそらく,学習者に対してより実践的な見取り図を提示することである。学習者にとってまず大切なのは,自分がいま目にしている語がどのタイプに属するのかを特定すること,そしてそのタイプの持つ言語的な特徴を他タイプとの比較によって知ることだから,区別しなくてはならない数だけ名詞のタイプがあると考えるのが実践的だという判断だろう。その結果,タイプを横断した相互参照が容易になり,各タイプを積極的に見比べながら解説が進められてゆく。

 形容詞の解説は,このように分類された名詞をつねに参照しながら進んでゆく。形容詞の語形変化(曲用・格変化)は名詞に準ずるため,両者の類似(これを実感することがまずは大切)が説かれるのはもちろんのこと,形容詞ならではの振舞いについても注意が促され,何に気をつけて学べばよいのかが明快である。学習者は,解説を読み進めるごとに,初級文法で学んだ知識が整然と組織化されてゆくのを実感することだろう。

 同様の方針は,動詞の章(第7章)でも採られている。そこでは動詞全体が,動詞幹と接尾辞・語尾との結びつき方によって14のタイプ(タイプ1〜10がω動詞,タイプ11〜14がμι動詞)に分類され,それぞれのタイプごとに特徴が説かれてゆく。解説に際しては語根(見出し語からは明らかでないことが多い)を知ることの重要性が強調され(p.124),ある動詞のある形がなぜその形になるのかが,必要に応じて他品詞の関連語との比較を織り交ぜながら示されてゆく。「法」「相」(本書ではvoiceを指す)「時称」などの文法概念については,主にタイプ1(e.g. παιδεύω)の組織を説き進めるなかで説明され,そこで得られた全体的な見取り図のもと,他のタイプの特徴に進んでゆく。学習者としては,本書(p.126)で勧められるように,まずはタイプ1とタイプ11を丹念に学び(つまり特徴を捉えて活用を覚え),それとの比較によって他タイプに進むのがよい。ギリシャ語文法の中で動詞の組織は最も複雑なので「マスター」するのには時間がかかるはずだが,上記の手順で少しずつ理解と記憶を確かなものにしてゆけば,いずれは身に着けることができるだろう——そういう気持ちにさせてくれる構成と解説である。

 文章論(第8章)の構成も面白い。そこでは主に「述部」の構造について説かれ,ある動詞がどのような文法要素を従えるか(e.g. 不定詞か節か),その要素は文にとって必要不可欠なのか任意なのかといったことが,動詞の意味を基準にして明快に分類されている。その際,それぞれの構文を「ルール」として分類するだけにとどまらず,なぜそのような構文をとるのかを学習者が実感を持って納得できるように,丁寧に解説が加えられている。必要に応じて動詞の章(第7章)に立ち返り,法やアスペクトの基本を確認しながら例文(平易なものが多い)と解説を丹念に読み進めることで,ギリシャ語の文がどのような発想のもとで組み立てられているのかが実感されるはずである。また,各項目の冒頭には構文についての一覧表が掲げられている。これは後に展開される解説のレジュメとしての役割を果たすのだが,それと同時におそらく,ギリシャ語で作文をする際に役立つことを意図している。本書でも勧められるように(p.387),ギリシャ語の知識を定着させるのに作文は最良の方法であり,平易な文を自在に作ることができる能力は,読解に際しても必要不可欠である。学習がある程度進んだら迷わず作文練習に進み,基本語を一つひとつ覚えながら学習を進めてゆくとよいだろう。

 前置詞の章(第10章)では前置詞の基本イメージが視覚化されていたり,「付録」として多岐にわたる参考書が紹介されているなど,本書の魅力は他にも多い。説明を図表に委ねたために(複雑な説明を省くメリットがある)やや意図が不明瞭な項目なども稀にあるが,それらも丹念に読めば理解することは可能である。学習者は必要に応じて辞書を引きつつ,解説本文だけでなくぜひ実例を大切に本書を読み進めていって欲しい。実践的なアドバイスが随所にあるので,まるで教室で授業を受けているような気分で学習を進めてゆくことができるだろう。通読するのがこれほど楽しい文法書はそうないと思う。

(堀川 宏/京都大学)

書誌情報:マルティン・チエシュコ著、平山晃司訳『古典ギリシア語文典』(白水社、2016年7月)