著者からのメッセージ

西村賀子:テオグニス他『エレゲイア詩集』

 このたび京都大学学術出版会刊行「西洋古典叢書」の一冊として、ヘレニズム以前の古代ギリシア語のエレゲイア詩の拙訳を加えていただきました。ひとえに多くの方々のお力添えを頂戴できたおかげと、衷心より感謝しています。

 日本西洋古典学会のホームページに寄稿を、というお誘いをいただいたので、「新刊書フォーラム」のコーナーをのぞいてみました。ここに立ち寄るのは本当に久しぶりです。

 すると、「『ギリシア詞華集』を翻訳して」という沓掛良彦先生のご寄稿があって、思わず目を奪われました。拝読して、心を打たれました。一冊の翻訳書が世に出るまでにこれほど壮絶な内面のドラマがあったとは……!

 ご高訳が塗炭の苦しみの末に生み出されたことを初めて知り、改めて敬服の念をいだきました。

 沓掛先生は『ギリシア詞華集』の訳について、「そんな翻訳であるから、不出来な上に、きっと多くの誤りを犯しているであろう」と書いておられます。これはもちろん、ご謙遜以外の何ものでもありません。けれども、この一文を拝読して、「そんな翻訳であるから」以外の部分は、そっくりそのまま『エレゲイア詩』の拙訳にあてはまると思いました。『ギリシア詞華集』の場合は、沓掛先生のお言葉をお借りすると、原文テクスト自体に「歌屑のごとき愚作、凡作」が多く、「詩的価値の乏しい作品が大半を占めているだけに、それを字面通りに忠実に訳したら、到底読むに堪えないものになるであろう」という事情があったようです。

 しかしエレゲイア詩の原文の場合は、大いに事情が異なります。と言うよりも、まったく逆といってもよいでしょう。エレゲイア詩には、駄作が皆無とは言い切れないにせよ、大なり小なり文学的価値があります。それにもかかわらず、拙訳が原因で「到底読むに堪えない」ものになってしまったのではないか、と気がかりです。私のへたな日本語のせいで「詩的価値の乏しい作品」のオンパレードに見えてしまうのではないかと、内心ひどく恐れています。

 沓掛先生のおっしゃる「そんな翻訳であるから」というのは、猛烈なスピードで訳さざるをえなかった複雑なご事情を指しています。でも私の場合は逆に、訳稿ができるまで信じられないほど長い時間がかかってしまいました。ギリシア語と日本語の基礎体力の欠如に加え、ご依頼を受けた時期に他の仕事もいろいろと重なっていたこともあってすぐに取りかかることができず、ぐずぐずと助走ばかり続けていました。沓掛先生のように他の仕事を一切断念し、この翻訳だけに懸ける、そんな誠実でいさぎよい生き方はすばらしいと思います。が、なかなか簡単にできることではありません。ずっと心に重くのしかかったまま、ずるずると何年も引きずってしまい、京都大学学術出版会に多大のご迷惑をおかけしたことを、この場をお借りして重ねて深くお詫び申し上げます。

 沓掛先生の引用ばかりで申し訳ないのですが、次の個所はまったく同感でした。

 「幸い編集を担当された和田利博さんが実に優秀な古典学者で、訳稿を細心の注意をもって丁寧に見てくださり、初歩的な誤りを含む多くの箇所に手を入れて訂正してくださった。」

 先生のこのお言葉には、本当に大きく頷きました。『エレゲイア詩集』も和田さんにはたいへんお世話になりました。「初歩的な誤り」どころか、中級・上級の誤りまでも訂正してくださいました。とくに出典の記載に関しては、控えめなのに適切なご指摘を受け、そのおかげで初めてわかったことが多々ありました。いっしょにお仕事をさせていただいて、古典学者としても一流で、編集者としても有能な方だと思いました。お仕事ぶりは、じつに綿密かつ誠実です。訳稿をお送りした後は、この仕事はもうすっかり片付いたものと思って、のんびり解放気分を味わっていたのですが、和田さんの鋭い質問や指摘に大慌てでもう一度テクストを見直すことが何度もありました。

 以下は、今だから言えるマル秘トークです。

 ギリシア語の詩の翻訳の難しさ、あるいは、原文の意をできるだけ美しく読みやすい日本語で過不足なく伝えることの難しさは、着手する前から、ある程度の覚悟はできていました。翻訳に伴うこういった当然の労苦にめげそうになることももちろんありましたが、それが理由でこの仕事を途中放棄しようと思ったことは一度もありませんでした。難しいけれども、まあ、そのうちにわかってくるだろう、いずれ何とかなるだろうと、楽観的に構えていました。

 しかし、一度だけ、この翻訳をやめたいと、本気で思ったことがあります。京都大学学術出版会に何年も待っていただいた挙句の果てに「この仕事、降ります、さようなら」などと言うわけにはとうていいかないことはわかっていました。それを承知で、それでも手を引きたいと、一度だけ思いました。テュルタイオスの断片10から断片13あたりを訳していたときです。

 そこには、戦争のために勇敢に戦えと兵士を叱咤激励する言葉が並んでいます。本当に衝撃的でした。戦死を美しいものとして勧奨するなんて、とんでもない、私にはそれはできない、そんな詩を訳すのは私の生き方に反している、耐えられない、と思いました。翻訳に従事する者はできるだけ誤訳を避けようと懸命に努力するものです。しかしここではむしろ、「死は美しい」というテュタイオスの詩句を「君死にたまふことなかれ」と故意に誤訳したかったほどです。それどころか、もしも私が中世の写字生だったらわざとテクストを改竄したのに、さえ思いました。

 しかし、テクストをゆがめるわけにはいきません。思想的に相容れない詩も、テクストとして受け入れざるをえません。

 テュルタイオス断片4の「レートラー」の部分にわけのわからない語が多かったこともあって、この詩人には辟易しました。陰陰滅滅としていた時期もあります。でも、根気よく付き合っているうちにだんだん見えてくるものがありました。テュルタイオスが戦意高揚の詩的効果を高めるためにどんな創意工夫を凝らしたかが、少しずつわかってきたのです。すると、そういうことだったのかと、ようやく納得がいきました。テュルタイオスが巧みに用いた仕掛けを逆手に取って、戦意高揚のためにではなく戦争回避のために応用することも可能ではないかと思うようになると、第一印象が最悪だったテュルタイオスの詩も、不思議なことに、有益な武器のように思われてきたのです。彼は軍事国家スパルタの兵士に、いわばペンで剣を取らせたのですが、ペンは剣よりも強い。言葉は力なのです。

 このことに、本書の解説ではあまり触れませんでしたが、それは、『文学』2015年3・4月号掲載の拙論「アルカイック期のギリシア詩人のいくさ歌」で、すでに詳しく論じたためです。もしよろしければ、そちらもご参照ください。

 『エレゲイア詩集』が世に出た以上、ともかく「采は投げられた」のです。もう後戻りはできません。テオグニスについては久保正彰先生のすぐれた御訳業がありますが、その他はほとんど本邦初訳です。秋に蒔かれた麦の種は踏まれて強くなる、踏みつけられて地面に根を張ると聞きます。拙訳もどんどん踏まれて、若い新しい芽がぐんぐん伸び、ギリシア・ローマの文学・哲学・歴史がわが国にもっとしっかりと根づくことを願うばかりです。

西村賀子(和歌山県立医科大学教授)

書誌情報:西村賀子訳、テオグニス他『エレゲイア詩集』(京都大学学術出版会西洋古典叢書、2015年11月)