著者からのメッセージ

納富信留:『プラトンとの哲学 ―対話篇をよむ―』

 プラトンを主題にした3冊目の岩波新書である。この確認から始めると、課題の重さが改めて意識させられる。斎藤忍随著『プラトン』は1972年に刊行され、第23回芸術選奨文部大臣賞を受けた。斎藤氏が東京大学文学部長を務めていた55歳の著書である。その11年後に講談社「人類の知的遺産」で公刊した同名著作とは、かなり趣を異にしている(講談社学術文庫で再版)。藤沢令夫著『プラトンの哲学』は1998年、著者72歳、京都大学退官後の上梓である。藤沢氏はその18年前に、岩波新書『ギリシア哲学と現代 ―世界観のありかた―』でプラトンを論じていた。拙著は、43年と17年を経ての同シリーズ入りである。

 プラトンのような主題では、先行する研究書や一般書を意識してもきりがないが、同じ新書で3度目となると話は別である。アポローン神から語り始め、大河のように中心テーマをたどる斎藤本プラトン。対して、秩序だって明快に哲学の基本立場を押えていく藤沢本プラトン。両著の優れた面、不十分に感じる点を見極めた上で、自身の立場を決めなければならない。だが、それもすぐに断念した。結局、私が向き合うのはプラトン自身であり、そこで生まれる言葉が2冊の先行著作と比較されるのは、結果、あるいは責任の問題だと思われたからである。新しい成果が優れるとは限らず、おそらく単純に判定はできない。好き嫌いといった趣味の問題も含めて、読者の各々に自身にもっともアピールする「プラトン」を選んでいただくしかない。いや、それぞれまったく異なる本として、対立的に、相補的にすべてを読んでいただくのが一番かもしれない。

 2著との関係は別にしても、今、新書でプラトンを書くことの意味は、とりわけ強く意識された。哲学が社会において果たす役割、そういった期待ですら、前世紀とくらべても萎んでしまっているように感じられる。そんな危機的な時代に、改めてプラトンを書くことの意味は何か。『パイドロス』が警戒を発した「書き言葉」を、私はとらえどころのない日本社会に投げ出した。そこでは、とりわけ2つのグループを念頭においている。10代から社会に出る前の若者たち、そして、今社会の中核を担っている私の同世代である。

 大学でさまざまな学部の学生に接するなかで、哲学的思考を基軸にして社会を批判的に見る学生が少ないのに驚く。与えられたことをそのまま疑問なく受け入れ、将来に備える生活。哲学や古典になにか関心を抱くはずの多感な思春期の若者たちは、親や社会の圧力のもとで、実用や利益や資格といった近視眼的な見方に閉じ込められ、読書や思索を楽しむ余裕さえないように見える。哲学が活きいきと行われる場面に出会わないとしたら、社会は貧しく、生きづらくなる。そんな状況を突き破るには、プラトンのようなぶっ飛んだ思索が有効ではないか。

 プラトン対話篇でソクラテスが提示する浮世離れした数々の見方や、人生を覆しかねない逆説、過激な変革の提案は、今の社会で親が子供にもっとも読ませたくない言論かもしれない。息子や娘が、まかり間違って哲学などに興味をもったり、堅実で失敗のない人生行路から逸れてしまったら、その主謀者に「若者を堕落させる」という罪状が向けられる。だが、プラトンの魅力、言葉の凄さ、哲学の偉大さは、そんな危険性において認められるのではないか。プラトンの本を読むことなく、ソクラテスの問いを聞くことなく過ごすとしたら、「吟味のない生は生きるに値しない」(『ソクラテスの弁明』38A)。こんなことを言えば、ソクラテスならずとも、余計なお節介だと親御さんたちに怒鳴られそうだ。だが、若者たちに悩みや疑問、希望や憧れを湧き上がらせる、それがプラトンの言葉の力である。その力をいくらかでも再現できたらと思う。

 いや、これは大人たちに率先して読んでもらいたい本でもある。息苦しい社会で日々を送っている私たちも、昔は若者だった。「天命を知る」はずの50歳となった私自身、心の奥で燃えていた火、哲学の原点を見つめ直すべき時期である。これまで上の世代の恩恵のもとで、反発を表明しながらも自立していなかった私たちの世代が、プラトンと真剣に向き合い、社会とは、文化とは、哲学とは何かを徹底的に考えるべき時なのだ。先送りし猶予していては、何も成し遂げられず生み出さないまま、中途半端に終わってしまう。それは、現在の哲学の状況への危機意識でもある。私自身の葛藤が、同世代の仲間たちへの励みや呼びかけになればと願う。

 若者と中堅、無論これは私が執筆にあたって勝手に想定した読者層であって、実際には実にさまざまな世代や背景の方が手に取り、それぞれの読み方をして下さるものと思う。プラトンが言ったように、書き物の効果は予見を越えている。

 新書という制約のなか、プラトンのどの対話篇に焦点をあて、どのトピックを扱うのかは困難な選択である。本書では、『ゴルギアス』『ソクラテスの弁明』『パイドン』『饗宴』『ポリテイア』『ティマイオス』『ソフィスト』という7対話篇と『第七書簡』を取りあげ、論じたい一節をまず引用してそれを読み解く形をとった。初期から中期、後期へという流れになったが、全体像を描くというにはほど遠い。特徴は3つある。

 まず、プラトンが切り開いた「超越」という哲学の起点を「魂」と「現実」という両面から明らかにすることを主眼とした。イデアという地平で成り立つ「理想」を、現代の私たちはどう語っていくか。そこでは、対話篇が活用する「想像力」が鍵になる。この切り口は、私の近年の研究と関心を反映したものとなっている。

 もう1つの特徴は、古代から現代までの哲学者の視点を取り入れたことにある。アリストテレス、ニーチェ、カール・ポパーらによる「イデア論」批判を始めとして、ハイデッガーやデリダや現代の科学者たち、日本では大西祝、西田幾多郎、田中美知太郎、坂部恵ら、プラトンを論じた人々を引き合いに出すことで、私たちが彼とどう対話するか、その可能性を探ってみた。

 最後に、プラトンを論じることは、内容もさることながら、なによりもスタイルの問題である。プラトンの魅力、いや哲学そのものの秘密が「対話篇」という形式にあるとすると、学術論文で分析して済むとは思われない。では、私たちも対話篇を書くのか? 彼のスタイルを模倣した著作は古来数多いが、残念ながら、元の迫力や知的覚醒を再現できたものはない。突出した才能というだけでなく、対話篇に対して対話篇では応答できない、という原理的制約があるのかもしれない。そんなことを考えた末、私は「語りかけ」という形式を選んだ。そうして、不在の著者プラトンに問われた私たちが彼に応答するという、対話とも独り言ともいえない奇妙なスタイルとなった。

 「プラトンさん」という呼びかけに、違和感を覚える方もいるはずだ。結局、プラトンに挑んで自分の非力さをさらけ出した私自身の軌跡、それが本書の実践である。『プラトンとの哲学』というぎこちないタイトルが、その試みを表している。

納富信留(慶應義塾大学教授)

書誌情報:納富信留『プラトンとの哲学 ―対話篇をよむ―』(岩波新書、2015年7月)