著者からのメッセージ

沓掛良彦:『ギリシア詞華集1』

『ギリシア詞華集』を翻訳して

 「西洋古典叢書」に収めるため『ギリシア詞華集』を翻訳して欲しいとの御依頼を、この叢書の編集委員の御一人であられる中務哲郎氏から受けたのは、一昨年(2013)6月の西洋古典学会の折のことであった。畏敬する大古典学者の御依頼ではあったが、自分の年齢や健康状態とりわけ脳力の衰え、それに翻訳にともなう種々の困難を考えて、これは軽々にはお引き受けできぬと考えたものであった。実はそれ以前に、やはり同氏からマルティアリスを翻訳しないかとのお誘いがあり、古典学徒というよりは一介の狂詩・戯文の徒をもって任じている私としては、一旦は大いにその気になったのだが、改めてマルティアリスを覗きなおし、併せて藤井昇氏の翻訳をも読んでみて、これは到底駄目だと観念し、お断りしたという苦い経験もあった。軽々に引き受けて、重ねてお断りするようなことがあっては申し訳が立たぬとの思いに駆られ、大いに躊躇せざるを得なかった。

 私は本格的な古典学者ではなく、自称狂詩・戯文作者として、いかがわしい「姦詩」なるものを勝手に捏造して、独り楽しんでいる世にも変な男であるが、マルティアリスの詩はきわめて難解の上、そこに頻出する、いわゆる四文字語を用いねばならぬ猥褻尾籠な表現を、日本語で表現するだけの勇気はなかったのである。

 『ギリシア詞華集』にしても、かつてその選訳を世に問うたことがあるとはいえ、全16巻4500篇にも及ぶ膨大な作品を独力で全訳することは到底不可能と思われた。仮にそれが達成できるとしても、どう見ても数年、場合によっては10年はかかるであろうと予測されたのである。私も既に古稀をいくつか過ぎており、老来ものぐさがひどくなっているので、厳密な文献学的作業をともなうギリシア詩の翻訳なぞはもう無理であり、存命中に完成させることはまずむずかしいと思わざるを得なかった。また嘗ての経験から、『ギリシア詞華集』には詩として読むに堪える作品が、多く見積もって一割もないことを、知っていたからでもある。ギリシア詩のすぐれた翻訳や研究を成し遂げたイタリアの詩人的古典学者E・ロマニョリはいみじくも言っている。「『パラティン詞華集』の全容を、そのままの形で近代の読者に供することは、専門家にとってさえも必ずしも楽しいとは言えないかの書を、一般の読者には耐えがたいものにするだろう」と。

 まさにそのとおりで、詩的・文学的価値の乏しい作品だとわかっているものを翻訳することほどつまらぬことはない。残り少ない余生をそんな翻訳に費やしたくないというのが、本音であった。巻によっては凡作、愚作のオンパレードなのである。

 何分おそろしく文学的価値の乏しい、退屈な第1巻「キリスト教エピグラム」から始まって、算術問題集にいたるまで、実に多くの歌屑のごとき愚作、凡作から数少ない珠玉の名詩佳篇にいたるまで、実に多様多彩な内容の詩を収めているのが、この『ギリシア詞華集』という膨大なエピグラム詩の集積なのである。詩的価値が高いその最良の部分は、既に呉茂一氏によってみごとな訳詩で紹介されており、それには遠く及ばぬものの、私が嘗て世に送った200篇あまりもの訳詩もあることだし、それで十分ではないかとの考えもあった。事実、翻訳の作業にとりかかってからも、一貫して私を苦しめたのは、「こんなものが詩か。こんなものはどう訳しても詩にはならない。こんなつまらぬ作品を邦訳することに何の意味があるのだ?」という疑念であった。やはり選訳でよかったのではないかとの思いが、幾度となく脳裡に浮び、凡作、愚作の翻訳への意欲を削ぎ、これには実に困った。

 『ギリシア詞華集』翻訳をためらった理由は、ほかにもあった。実はここ数年は陶淵明、和泉式部、式子内親王、西行といった和漢の詩人・歌人を論じることに没頭し、すっかり横文字をはなれていたし(昨年から今年にかけて上梓されたエラスムス関係の仕事は、いずれも2008年以前にやったものが、ようやく本になっただけの話である)、ギリシア語も大分忘れつつあったので、大いに不安でもあった。それに何よりも、当時から最大の関心の対象である李商隠と一休和尚が眼前にたちはだかり、「お迎え」の来る前に、この両人の詩についてなんとか一言しておきたいとの欲心を抑えられなかったということもあった。生涯最後の大仕事になるであろう『ギリシア詞華集』全訳の仕事にかかれば、もはやそれはかなわぬ夢になるであろうと懼れたのである。

 かくてさんざん思い迷った末に、涙をふるって李商隠と一休和尚に永の訣れ(と思われた)を告げ、全訳を目指して翻訳に着手したのが、一昨年の8月のことであった。(わが李商隠よ、一休和尚よ、お赦しくだされ。詩人として御両所を崇める気持ちは、いささかも変わっておりませぬ。)もし途中で倒れるようなことがあればそれも致し方ない、ともかくやれるところまでやって、後は他の人に引き継いでもらえばよい、と腹を固めたのである。完訳できない場合も考え、ヘレニズム詩に詳しいさる古典学者の先生に、そのときは翻訳を引き継いでくださるよう、密かにお願いもしておいた。

 持病の異様な高血圧症に苦しめられ、今年の冬なぞは、「いつ倒れてもおかしくはないですよ。無理な仕事と酒は厳禁です」などと医者に脅されながらの翻訳作業であった。われながらよくまあ倒れずに、ここまで無事にもったものだとの感が深い。(実はストレスに耐えきれず、酒もこっそり飲んでいたのである。)

 さてその『ギリシア詞華集』だが、全訳を目指して翻訳にとりかかってみると、果たして難題続出であった。まずは翻訳の態度、方針の問題があった。以前選訳をしたときには、あくまで私個人の訳詩集だったので、自分の心にかなう作品だけを選び、ペイトン編のロウブ版とビュデ版を底本にして、かなり自由にふるまうことができ、字面に忠実であることよりも、むしろ日本語の詩として読むに耐えるものにすることに重きを置いて、時には大胆な意訳も試みた。原詩と行数を一致させることなども必ずしも守らなかったし、諷刺詩などはその面白さを伝えることこそが肝腎と考え、敢えて字義通りに訳さなかった詩も多い。(これは詩として読まれることを期待してなされた、欧米の『ギリシア詞華集』訳者も皆やっていることである。)しかし今回は事情が異なり、学術的な「西洋古典叢書」のひとつとしての翻訳である。当然のことながら文学性を盾に取った身勝手な翻訳、訳詩としての詩的価値を優先した自由な翻訳は許されない。これは詩の翻訳は一種のrecreatioであると信じている者にとってはなんともつらい制約である。とりわけ『ギリシア詞華集』は詩的価値の乏しい作品が大半を占めているだけに、それを字面通りに忠実に翻訳したら、到底読むに堪えないものになるであろうことが容易に予測され、それが大いに翻訳の意欲を削いだのである。学問的に正確であること、これがまず、本質的に「軽文学」であるエピグラムの集積である『ギリシア詞華集』の持ち味を、それらしく日本語で伝える上での大きな障害となった。

 さらには『ギリシア詞華集』はテクストの乱れがひどく、ロウブ版、トゥスクルム版、ビュデ版でテクストの詩行が異なっている場合がしばしばあり、またほかに参照したテクストや詩選集などとも異なっていることがあって、一つ一つの詩に関して、どの読みを採るか決めねば翻訳できず、これにも大いに悩まされた。文献学的研究を大の苦手とする、本格的な古典学者ならぬ浅学の狂詩・戯文の徒には、こういう学問的な作業は実につらいのである。また註釈がない作品が大半であるため、原詩の意味がはっきりしない作品も少なからずあり、詩の解釈や翻訳に自信が持てない場合もあった。Gow-Pageによる大部の註釈書とその続編はあるが、これにしても註釈の対象となっているのは700篇ほどにすぎず、全体の6分の1にも足らないし、その註釈自体も、当の詩の表現に関して “obscure” などと書かれている場合がたびたびあり、原詩の解釈も容易でない局面にしばしば遭遇した。

 全体として言えば、エピグラムからなる『ギリシア詞華集』は、初期ギリシアの抒情詩などに比べればずっと平易であるが、それでも、一体この詩は何を言っているのかを、明確に把握しがたい場合も少なからずあった。そればかりか、『ギリシア詞華集』の諷刺詩に多く見られる、ギリシア語の語呂合わせや言葉遊びによって成り立っている詩をはじめ、事実上翻訳不可能か、あるいは翻訳すると無意味になる作品が少なからずあって、これには絶望させられた。各詩行の文字数を同数にするという軽業によってできていたり、回文だったりする詩もあり、まるで判じ物のような図形詩ありといった具合で、無内容なくせにアクロバティックな詩技を誇示する詩が少なからずあって、それが訳者である私を苛立たせた。元来算数が苦手の上、老来計算能力が極度に落ちている老骨にとって、詩でもなんでもない数多くの「算術問題集」を翻訳せねばならぬのは、苦痛の極みでもあった。おかげで大いに血圧が上り、倒れる寸前のところであった。だが全訳となれば、そういうものもとにかく日本語にしなければならず、無意味と知りつつも強引に翻訳せざるを得なかった。その場合ヨーロッパ語の翻訳が参考になるのだが、これがまたそれぞれ解釈が異なっている場合が多く、この問題にも大いに悩まされたものであった。総じてギリシア詩の翻訳に関して言えば、ヨーロッパ語による翻訳は意訳、自由訳が多く、原詩の語句の解釈にはあまり役に立たないことが多い。たとえばイタリアの名高い詩人クヮジーモドによるみごとな翻訳などは、それ自体イタリア語の詩としては美しいが、解釈に苦しむような原詩の語句の意を把握する上では助けにはならない。欧米で出ているさまざまな『ギリシア詞華集』の選訳、抄訳などを見るたびに、「ああ、ここまで自由に訳していいのなら、楽なものだ」と羨まざるを得なかった。ある英訳者などは、「メナンドロスが言うには」という句を、“Shakespeare said” と訳してさえいるのである。わが国でこんな翻訳をしたら、古典学者の先生が眼を三角にして怒り狂うことであろう。

 今回参照し、仔細に検討して改めて驚かされことのひとつは、訳詩集ではなく、古典学者による学問的な仕事であるトゥスクルム版のベックビィによるドイツ語訳の、大胆な意訳ぶりであった。またビュデ版のヴァルツたちの翻訳なぞは、パラフレーズに近いとさえ言えるものだ。その点ロウブ版のペイトンの英訳は、愚直なほど原詩に近いとも言える。(ただしおそろしく散文的な訳で、詩的な味わいには全く欠けている。ちなみにペイトンの訳では、猥褻詩に近い性愛詩などは英語ではなくラテン語に訳されている。イギリスのジェントルマンとして、露骨な表現を用いたルピノスの詩などを英訳するのを憚ったのであろう。私にしても、もう少し漢詩の心得があれば漢詩に翻訳したかったところだ。とは言っても、中国の艶詩などとは比較にならぬ露骨な性愛詩を訳すにふさわしい漢語の語彙などは知らないから、これはそもそも無理な話だが。)

 結局のところ翻訳で最も参考になったのは、これも散文的な訳ではあるがM・F・ガリアノによる平明なスペイン語訳であり、第16巻プラヌデス詞華集に関してはG・G・ビオクによるスペイン語訳であった。部分的に参照しただけだが、グロティウスのラテン語訳も大いに助けとなった。

 翻訳の作業にかかってからは、脳梗塞や脳出血にやられて倒れる前に、何としてでも全訳を果たしたいとの、ただその一念で、ひたすら横のものを縦にするだけの毎日であった。時間的にも精神的にも、翻訳を詩的・文学的なものに仕上げるゆとりはまったくなかった。原詩を一読し、瞬時にしてこれはこういう訳で行くと決めたのであるから、無茶な話であった。「こんな翻訳の態度は許されない。こんなものは詩ではない。まして自分の翻訳は到底訳詩と呼べるものではない」と己を責めつつ、忸怩たる思いで、1日に何篇もの、時には10篇を越えるエピグラムをしゃにむに翻訳したのである。短い詩ばかりだとはいえ、1日で20篇以上訳したこともあった。詩の大意を伝えることに汲々とし、それで精一杯であった。

 そういうわけで他の仕事は一切断念し、『ギリシア詞華集』に関連する研究書以外の本を覗くことすらも諦めて、日夜馬車馬のごとく苦闘すること1年8ヵ月、ともかくも一通り全訳を果たしたのが今年(2015)3月のことであった。思いのほか早く訳了できたと言えば言えるが、短兵急に事を急いだだけに、振り返って見ると多くの誤りや不正確な箇所、ずさんなところが眼につき、ほぞを噛むこととなった。正直言って、われながら出来はよくない。悔いばかりが残った。幸い編集を担当された和田利博さんが実に優秀な古典学者で、訳稿を細心の注意をもって丁寧に見てくださり、初歩的な誤りを含む多くの箇所に手を入れて訂正してくださった。そのおかげで、見苦しい誤りだけは何とか防ぐことができたのは幸運であった。最後のほうは疲れが出て頭も朦朧とし、ひどい出来になったのではないかと思う。精根尽き果てたと言っても嘘ではない。和田さんにはずいぶん助けていただいた。深謝のほかない。もっと時間をかけ、1篇1篇を慎重に翻訳し、多少なりとも措辞を彫琢してれば、よりましな訳ができたであろう、との思いはある。許されるものならば、自分で納得できるまで訳詩を推敲し、その完成度を高めたくもあった。しかしそれをやっていたら、1日1篇訳すとしても4500日、10年あまりは優にかかるであろう。もはや古稀も半ばに達しようとしている私が、それまで生きられるとは思えないし、何よりも酒で荒廃した頭が、その間に完全に呆けてしまわないという保証はない。そこで、やる以上は短期決戦しかないと決めて、電光石火めちゃくちゃなスピードで翻訳したのである。

 そんな翻訳であるから、不出来な上に、きっと多くの誤りを犯しているであろう。元来私はあまりギリシア語ができないばかりか、近年は横文字離れで語学力もひどく低下しているから、自分の翻訳に自信は持てない。翻訳中も、いずれ鵜の眼鷹の眼で文字通りの拙訳を検証し、誤訳を指摘なさるであろうギリシア詩研究の大家の某先生の御顔が、幾度か脳裡に浮んだものであった。わが国の古典学者の先生方の同学の者に対する眼は、実に厳しい。確かに私には古典学者を名乗るほどの力はない。昔私が初めて『ギリシア詞華集』の選訳を世に問うた時、某古典学者に「あれはギリシア語原典からではなく、どうせ近代語訳からやったんでしょう?」と言われたものである。さる英文学者に至っては、「あんな詩がギリシアにあるはずがない。あれはあんたが捏造したんじゃないの?」と仰せられた。本格的な古典学者ならぬ一介の浅学の狂詩・戯文の徒に対する世の不信の念は、ことほどさように根深いのである。

 無論、ギリシア詩の翻訳を世に送る以上、古典学者諸先生のご批判を受ける覚悟はできている。ただ批判なさるならば、「こんな翻訳では駄目だ。これは正しくはこうやるのだ」と実例をもって示され、範を垂れてくださるようお願いしておきたい。学問的に正確で、しかも美しく詩的な訳詩をお見せいただければ、私としても欣然とご批判を受け入れるであろう。そういう訳詩をぜひ見たいものだと、誰よりも強く願っているのがほかならぬこの私なのだから。

 いずれにしても、翻訳を楽しむどころか、ただただ苦しい日々であった。翻訳に際しては、註釈のあるものはそれを参照し、グロティウスのラテン語訳(これは名訳とされている)を始め、英独仏伊西語訳など何種類かの翻訳を参照し、そのほか解説や訳註を書くためにあれこれ研究書なども読みながらの翻訳であったが、古稀を過ぎた老骨にはこれは実に苦しい作業であった。猛烈な速度で翻訳しながら、こんな態度は詩を愛する人間のすることではないと自覚していただけに、余計苦しかったのである。言うまでもないことだが、詩の翻訳というものは、己が好みよく知る詩人の作品のみを選んで、その内部にまで入り込み、慎重に言葉を選んで翻訳すべきものである。措辞に意を用い、原詩の趣きを可能な限りよい日本語で再創造するというのが、その務めであろう。これまでも私は、その方向を目指して詩の翻訳をやってきた。だが今回ばかりは事情が異なる。今回私がやったのはその正反対の、反文学的・非詩的な行為にほかならない。詩というものに対する冒瀆、裏切りだと言われても仕方ない。ただ、ここでひとつだけ弁解がましいことを言わせてもらえば、そもそも原詩からして、詩的価値の乏しい凡作が大半を占めているのが『ギリシア詞華集』という詩の集大成なのである。それを詩味豊かでみごとな日本語の詩に仕立て上げるだけの力量、いや魔術の心得はこの私にはない。

 そういう翻訳であるから当然の結果として、出来は甚だよくない。原詩で読んでもくそ面白くもない作品が、非文学的、「ガクジュツ的」な文字通りの拙訳に姿を変えたものが、それ以上に無味乾燥なのは自明のことである。それは十分にわかってはいたが、「今回はともかく全訳すること自体に意味がある。たとえ訳詩の体をなしていなくとも、ともあれわが国の読者に『ギリシア詞華集』の全体像を示すことによって、ヘレニズム時代以降のギリシア人の人間像や生の諸相を伝えることは、それなりに役立つはずだ」と自分に言い聞かせ、出来栄えには眼をつぶってしゃにむに翻訳を進めたのであった。今回の翻訳が実際にそのような役割を果たすかどうかはわからない。詩として味わわれ、享受されることは全く期待できない。だが森羅万象とはいかないまでも、人事百般、諸事万端をテーマとした、恐ろしく多彩多様な内容をもつ膨大な詩の集積は、ヘレニズム時代以降の後期ギリシア人の生の諸相、その心性、精神生活を物語る資料として、文化史的な資料にはなり得るのではないかと思う。訳者としては、それだけでも満足しなければなるまい。いずれ拙訳を叩き台として、それを踏まえて、よりよい翻訳を生む古典学者があらわれることであろう。その日が近いことを切に冀うばかりである。

 ともあれひとまず翻訳はやり終えた。ルネッサンス以降、ヨーロッパでも『ギリシア詞華集』の単独での全訳を果たした人は、私の知る限りでは数人しかいない。(その一人が、国際法の父として知られるが、すぐれたラテン語詩人でもあったグロティウスである。)ギリシアには縁遠いこの東アジアの一隅に住む、古典学者とも言えぬ一介の狂詩・戯文の徒が、出来栄えはともかく、なんとか全訳を果たせたという安堵感はある。と同時に、こんな不出来で詩的・文学的完成度の低いものを読む人が、この国にいるだろうかという不安と虚しさとを胸中に抱えて、腑抜けのようになって日々を過ごしている今日この頃である。拙訳の第1分冊が近々世に出ることになっているが、大いに不安である。

 生涯最後の大仕事で精根尽きて腑抜けのようになり、一休和尚と李商隠に取り組む気力が失せ、わが鍾愛の詩人たちが遠ざかってしまったのが、なんとも寂しい。こうなったからには、一休さん、もはや抜け殻同然の私を早く迎えに来てくだされ。

(2015年7月  老耄書客 枯骨閑人)

沓掛良彦(東京外国語大学名誉教授)

書誌情報:沓掛良彦訳、『ギリシア詞華集1』(京都大学学術出版会西洋古典叢書、2015年7月)