著者からのメッセージ

中務哲郎:『極楽のあまり風 ギリシア文学からの眺め』

『極楽のあまり風』余風

 ここ10年ほどの間に物したエッセイを集めて『極楽のあまり風 ギリシア文学からの眺め』なる一本にしていただいた。

 グローバリゼーションというのは、政治や経済の方面を見れば名前を変えた植民地収奪に他ならぬと思えるが、罪のないグローバリゼーションなら大昔からあった。よく似た昔話や伝説が民族や国境を楽々と越えて世界大に広がっているのがそれで、国境なき口承文芸には既視感のような懐かしさがあって人々を惹きつけるのではなかろうか。

 時代も地域も大きく隔たるのに瓜二つの話が現れる理由としては、伝播説と独立発生説が唱えられるが、もちろん、一概に言えることではない。しかし、スコットランド随一のストーリーテラーと謳われたダンカン・ウィリアムスン(1928-2007)と会見する僥倖を得た折りに、「世界中でこんなに似た話があるのは何故か」と問うて、「全く別の人が同じ夢を見るだろう」と答えられた時には、独立発生説にすっと入って行けるようであった(「口承文芸のゆらぎ---ダンカン・ウィリアムスン訪問」)。

 今回の本では昔話・伝説を扱うことが少なく、代わってギリシア文学に見える技法を他国の文学と比べるものが幾つか集まった。文学上の技法を考えるのに昔話・伝説研究と同じ物差しを当てはめる訳にはいかないが、私は世界の文学に共通して現れる現象を考える場合にも、伝播か独立発生かという見方を無意識のうちにしていたかもしれない。比較文学というのではないのだが、文学をグローバルに眺めたいという思いが根底にある。

 こうして25の章が集められたが、各章のタイトルだけを見れば脈絡のないこと夥しく、かねがね親しい本屋から、「先生の本はどこに並べてよいか、置き場所に困ります」と言われるのも無理はないと思われる。ところが、今回版元となったピナケス出版社主の濵賢さんが、「これはエンターテインメントである」と、一言にして我が文集の居場所を定めて下さったのは嬉しかった。

 もう一つ喜ばしい経験は、本書の母体をなす岩波書店「図書」18回の連載の間に、読者の方々から感想を寄せていただくばかりでなく、幾つも新たな資料を加えていただいたことである。そこから思い出したのは、日本西洋古典学会の大会で静岡に出かけた時のこと。静岡駅から御幸通りを西北に進むと、県庁前で身の丈を越える石柱が目に入る。山岡鉄舟筆になる字で「教導石」と彫られたその石の、右側「尋ル方」に質問を貼付ければ、左側「教ル方」に識者の回答が現れる仕組みだという。インタネットの掲示板・質問箱の先蹤と言えそうだが、私はエッセイを発表することで、期せずして世の中に質問を発していたことになる。(この発想を遥かに溯れば、病人を広場に置いて、同じ病を経験して癒えた人の治療を仰ぐバビロンの風習に行き当たるし(ヘロドトス『歴史』1.197)、柴田宵曲も『続妖異博物館』中「難病治癒」の一文で中国における類話を挙げている)。転校して新しい土地で遊び相手を見つけた子供、のような嬉しさがその時あった。

中務哲郎

書誌情報:中務哲郎『極楽のあまり風』(ピナケス出版 2014年11月)