著者からのメッセージ

南川高志・桑山由文・井上文則:アエリウス・スパルティアヌス他『ローマ皇帝群像4』

『ローマ皇帝群像』の刊行を終えて

 ローマ帝国の最盛期である紀元2世紀と、危機とその克服の時代である3世紀に帝国を統治した皇帝たちの伝記集が、Historia Augusta(ないし『ヒストリア・アスグスタの作家たち』Scriptores Historiae Augustae)の名で伝えられてきた。私たちは、その邦訳を『ローマ皇帝群像』の書名で刊行する作業を長らくおこなってきたが、このほど第4分冊(井上文則の単独訳註と3名による「解題」)の出版をもって作業を終了した。

 この伝記集は、著者や執筆年代など謎に包まれた奇書であり、またその内容もラテン語文の質の低さや間違い・ねつ造の多さの点で、歴史書としても文学作品としてもひどく悪く言われてきた。確かに、この作品が文学的資料の乏しい2世紀から3世紀にかけてのローマ帝国史の研究に重要な史料となっていなければ、歴史学者である私たちは訳出する気にならなかったかもしれない。

 しかし、訳を終えてみると、歴史研究者として、間違いの指摘や解説などのためにたくさん註を付ける苦労をしたものの、本当にこの作品にとってこうした作業が至上命題だったのか、疑問にも思えてきた。この作品は、人間の捉え方や出来事の推移の説明は、例えばタキトゥスの主著『年代記』とは真逆の性格のもので、訳をしながらその記述の浅さに呆れる思いをしたこともある。しかし、そう尖らずに読んでみると、実は相当面白い作品と言えるようにも感じる。

 例えば、日本でもヤマザキマリさんの漫画『テルマエ・ロマエ』やその映画化でよく知られるようになったハドリアヌス帝(在位117~138年)について、『群像』所収の伝記から逸話を二つ紹介しよう。

 ハドリアヌス帝がある日公共浴場に行くと、軍隊勤務中に見知っていた退役兵が浴場の壁に身体をこすりつけているのを見かけた。なぜそのようにしているのか尋ねると、その男は、自分は身体をこすらせる奴隷を持っていないからだと返答した。ローマ人は浴場で、ストリギリスという金属製の垢取り器で奴隷に身体こすらせていたのである。そこで、皇帝はその退役兵に、奴隷と奴隷を養うことができる費用を贈ってやった。別の日に皇帝がまた公共浴場に行くと、多くの老人たちが、以前退役兵がそうしていたように、壁に身体をこすりつけていた。そこで、ハドリアヌス帝は人々に命じて、相互に身体を磨き合うようにさせたという(第17章)。

 また、ハドリアヌス帝は、密偵を用いて元老院議員の素行を調べさせていた。ある議員の妻が夫に手紙を書いて、彼が浴場の享楽にふけって自分のもとに帰ろうとしないと嘆いた。密偵を通じてそのことを知ったハドリアヌス帝は、この元老院議員が休暇を願い出に来たときに、浴場の享楽にうつつを抜かしている非難した。男は驚いて、「私の妻は、私に書いたように、陛下にも手紙を書いたのでありましょうか」と言った(第11章)。

 最初の逸話について、歴史学者はそこに、皇帝も公共浴場を使用したこと、皇帝には民衆に贈与を行うことが求められていたこと(エヴェルジェティスム論)、将軍とその部下の兵士とのつながりが退役後も「パトロネジ」のように効果を持っていたかもしれないこと、などなどを見ようとするかもしれない。第二の逸話からは、『群像』が書かれた後期ローマ帝国時代の「秘密警察」や皇帝支配の実態の反映か、と考えるかもしれない。

 しかし、このようにして歴史研究者の研究の延長上で伝記集を読むことは、この作品の扱いとして不適切なのではないか。伝記の著者(たち)が、ハドリアヌスという皇帝の横顔を、彼(ら)の生きた古代終焉期まで伝存していた資料を使いながら描いた、その成果をまずは耽読することが大事なのではないか。

 詩人フロルスが、帝国領内を広く旅して回ったハドリアヌスを皮肉って、次のような詩を送ってきた(第16章)。

皇帝なんぞにはなりたくない。ブリトン人の間をうろついて、……の間に潜んで、
スキュティア人たちの地の冬を、辛抱しなければならぬから。

これに対して、皇帝は次のように詩で返した、と伝記は書いている。

フロルスなんぞにはなりたくない。安料理屋の間をうろついて、居酒屋に潜んで、
丸々と太った蚊の餌食になるのを、辛抱しなければならぬから。

このような詩を実際にハドリアヌスが書いたのかどうかを詮索する前に、まずはこの駆け引きから著者(たち)がハドリアヌスの何を読者に訴えたかったのか、それを理解し味わうことが、この作品に向き合う第一の態度だろう。

 私たちは、この伝記集に註を多く付した。訳に当たって、誤りやねつ造を指摘しなければならないという、歴史研究者の使命感、あるいはクセがまず働いたためだ。しかし、「西洋古典叢書」のルールから大きく逸脱してしまった。歴史研究者からは、研究に役立ちますと感謝されたり、もっと勉強してしっかり註を付けなさいと叱られたりした。

 しかし、こうした歴史研究者のご意見は特別のものだと今私たちは感じている。訳文は平易であっても、多く付された註のために、一般読者にはさぞ読みにくかったことと反省している。西洋古典叢書に収められる文学作品は、本来本文訳だけで面白いはずであり、楽しめなければいけない。『群像』もまた、その「面白さ」のために、西洋で長く読み継がれてきたのである。

 全文訳を刊行してみて今頃気がついたのかと叱られそうだが、読者には、どうかあまり註を気にせず、伝記著者(たち)の語りに沿って皇帝たちの生涯を追ってみてほしい。そうすると、『テルマエ・ロマエ』に描かれたハドリアヌスやアエリウス・カエサル、そしてアントニヌス・ピウスとは違う、読者ご自身のローマ皇帝像ができるかもしれない。タキトゥスのような人間の真に迫る深い洞察の歴史書からは、その個性の強さのために読者は著者タキトゥスの人物観、世界観から自由になれない。その点で、この正体不明の本伝記集の著者(たち)の作品は、私たちに想像の自由を与え、思いがけない歴史空間を楽しませてくれるだろう。

南川高志(京都大学大学院文学研究科教授)
桑山由文(京都女子大学文学部准教授)
井上文則(早稲田大学文学学術院准教授)

書誌情報:南川高志訳、アエリウス・スパルティアヌス他『ローマ皇帝群像1』(京都大学学術出版会西洋古典叢書、2004年1月)
桑山由文・井上文則・南川高志訳、アエリウス・スパルティアヌス他『ローマ皇帝群像2』(京都大学学術出版会西洋古典叢書、2006年6月)
井上文則・桑山由文訳、アエリウス・スパルティアヌス他『ローマ皇帝群像3』(京都大学学術出版会西洋古典叢書、2009年5月)
井上文則訳、アエリウス・スパルティアヌス他『ローマ皇帝群像4』(京都大学学術出版会西洋古典叢書、2014年9月)