訳者からのメッセージ
中務哲郎:ソポクレース『アンティゴネー』
翻訳コンテストの課題の宝庫
『アンティゴネー』の原典訳は管見に触れたものだけでも5種類を数えるから、新訳の企ては屋下に屋を架す如きものである。しかし、この作品はテクストが毀れて満足のいく校訂を拒んでいる箇所が多いので、翻訳作業を通じてこれまでの訳者の苦労がよく分かると同時に、翻訳コンテストの課題にすればよさそうな名文句の多いことにも改めて気づかされた。ここでは二つの例を掲げて話題提供としたい。
先ずは最も有名な箇所。332行以下の第一スタシモン、「人間讃歌」と呼ばれるものの冒頭2行である。
「世に稀有のものは数々あるが、いずれも人間(ひと)には及ばない」(森進一)
「不思議なものは数あるうちに、人間以上の不思議はない」(呉茂一)
「不思議なものはあまたある中に、人間よりも不思議なものはない」(松平千秋)
「世に数々の不思議はあれど、人こそ比類なき不可思議なれ」(内山敬二郎)
「不可思議なるものあまたある中に、人間にまさって不可思議なるものたえてなし」(柳沼重剛)
「恐ろしきものはあまたあれど、人よりもなお恐ろしきはなし」(中務哲郎)
英独仏語訳ではwonderful, wonders, unheimlich, ungeheuer, des merveilles などと訳されることが多いが、Lloyd-Jonesはformidableである。私が「恐ろしき」としたのは、『アンティゴネー』にdeinosが13〜4回現われるうち、クレオーンがテイレシアースたち予言者を指してdeinoi(狡智に長けた)と罵る箇所以外では、すべて「恐ろしい」が最もふさわしいと思え、「不思議な」の意味になりそうな所がなかったからである。しかし、コロスの歌全体の解釈を左右するdeinosの多義性を一つの日本語に押し込めてしまわねばならぬ翻訳という作業は恐ろしい。
次に最も難解な箇所。アンティゴネーの長い辞世の言葉の終りがた、925行以下。ここは綺麗なmen….de….構文なのであるが、「AならばB、CならばD」のBの前に厄介なアオリスト分詞があるのと、Dが願望文になっていることのために、翻訳は甚だ難しくなっている。
「ともかく、こうなることが、神さま方の御嘉納なさるものでしたら、仕置を受けて自分の咎を、私もきっと覚ることでしょう。でも、もしこの人たちが間違ってるなら、道にはずれた裁きに私を処刑(しおき)するより、もっともっとひどい目を、この人たちがいつか見などはしませんように」(呉茂一)
「いいわ、もし神樣方がこれで良いとお考えなのなら、わたしも苦しみを味わった後で、自分の過ちを認めましょう。でも過ちがこの人たちにあるのなら、無法にもわたしにしてくれたことより、もっと酷い目には会わないように祈ってあげましょう」(松平千秋)
「ともあれ、もし神々がこんなことを善しとされるのなら、苦しい目に遭った私が間違っていたのだと認めよう。だが、もしこの人たちが間違っているのなら、私に対する非道なしうち以上の苦しみはありえないが、苦しむがいい」(中務哲郎)
Dの部分の既存訳と拙訳が正反対を向いている。拙訳はここを、「彼らが私に加えた非道以上のひどいことはない」という文と「彼らがそんなひどい目に遭えばよい」という呪いが合体した文章だと解釈したのである。
ヘーゲルは『精神の現象学』でここのBにあたる1行だけを引用するので、その邦訳も分かりにくいものになっている。
weil wir leiden, anerkennen wir, daß wir gefehlt.
「われら負い目あるにより、とがめをうけがう」(樫山欽四郎)
「わたしたちが苦しむということは、あやまちを犯したことを認めることなのでしょう」(長谷川宏)
「我々は苦しむが故に承認する、我々が過ちを犯したことを」(牧野紀之)
この1行に関する限り、最も直訳に近い牧野訳がよいようである。(ギリシア語原文で「我々」は「私」の代用である)。問題は『アンティゴネー』の方、「ソポクレースの文章が凝縮された名文であるのなら、うまく訳せない私が間違っていたのだと認めよう」と兜を脱がなくてよいことを祈っているが、どうであろうか。
書誌情報:中務哲郎訳、ソポクレース『アンティゴネー』(岩波文庫、2014年5月)
付記:
五之治昌比呂君が調べてくれましたが、中村吉蔵はこの部分を、
「私の受けた不当の虐げを彼等の上に罰として下して下さい。」
と訳しているそうです。比較級をすっ飛ばしていますが、これなら主旨を外さぬという意味で満点に近い。自分を苦しめた人たちをアンティゴネーが思いやるのはおかしく、彼女は敵たちを呪っているのですから。