著者からのメッセージ

朴一功:プラトン『エウテュデモス/クレイトポン』

プラトンの破壊力

 プラトンの作品はよく知られている。しかし、一般に読まれている作品の数はそれほど多くはない。『ソクラテスの弁明』や『クリトン』、『饗宴』など歴史的に有名で、しかもあまり長くはない作品が好まれるだろう。プラトンの研究者やプラトンに特別の関心をもつ人なら多くの作品を読んでいるかもしれないが、すべてを読んでいる人となると数は限られるように思う。私はといえば、まだ全部を読んではいない。今後、すべてを読むかどうかもわからない。だから、まともな「プラトン研究者」とは言いがたい。

 『エウテュデモス』と『クレイトポン』は、日本では名前すら聞いたことのない人が多いにちがいない。先日も、日本哲学を専門とする若い研究者にこう言われた。「今度、プラトンの翻訳を出されるそうですね。広告で見ました。でも、タイトルは聞いたことがなかったので、何だろうかと思いました」。私は簡単に説明した。「作品は二つ。まとめても短いので、これくらいの薄い本。特に『クレイトポン』はプラトンの作品中いちばん短いので、すぐ読める。どちらも面白い。『エウテュデモス』では、徳のすすめ、哲学のすすめが語られるけれども、『クレイトポン』では、ソクラテスに、そんな “すすめ” はもうおしまいにして、その先を聞かせてほしい、とクレイトポンが言う。ソクラテスは何も答えず、それで終わり」。彼は少しびっくりして、「ひょっとして、その作品、未完ですか?」とたずねるので、「そうかもしれないね。実際、ソクラテスの沈黙をめぐっていろいろと解釈があって、面白いからあれこれと解説に書いたよ」と私は答えた。

 『エウテュデモス』や『クレイトポン』が日本であまり知られていないのには、それなりの理由がある。入手しやすい翻訳がこれまでなかったことも一因であるが、日本にかぎらず、これらの作品がプラトン研究において中心的な位置を占めてこなかったことが大きい。『クレイトポン』はあまりにも短い作品であり、その真作性が疑われ、また『エウテュデモス』は対話と論争のコントラストを描いていても、哲学的な問題を真正面から追求している作品であるようには見えないのである。つまり、どちらの作品も、オーソドックスな研究(言いかえれば、解釈)の種が乏しいのである。論じられても一部の専門家の間での、いわば歴史研究や作品分析であったり、言及されても二次的な場合が多い。

 しかしながら、プラトン研究とプラトンの哲学とは異なる。哲学において大事なのは、プラトンの哲学であって、それの位置づけや解釈ではないであろう。ましてや、解釈の解釈、そのまた解釈といったものでもない。文意を解釈する作業は貴重ではあるが、哲学は問題と事柄を見きわめる作業であり、作品で語られる言葉の価値やその真偽もこの観点から考えられねばならない。今回訳された二つの作品が読まれるかどうかはもっぱら人の好みによるが、そこに語られている問題を考えたいと思う読者は、時を越えてきっといるにちがいない。今、私は勤め先の教育現場で、生き方に悩む多くのクレイニアスたち、クレイトポンたちに出会う。私は何を語りうるのか? しばしば自問する。そして、ふと思う。私のこれまでの研究は論争家エウテュデモスの、空を切る言葉と似ているのではないか、と。作品を訳し終えて、何かが崩れてゆくのを私は感じた。

朴一功(大谷大学文学部教授)

書誌情報:朴一功訳、プラトン『エウテュデモス/クレイトポン』(京都大学学術出版会西洋古典叢書、2014年6月)