著者からのメッセージ

丹下和彦:エウリピデス『悲劇全集3』

エウリピデスを訳しながら

 先にこの欄をお借りしてギリシア悲劇の翻訳に際しての若干の見解を述べさせていただいた。引き続き翻訳文の作成に関して、細かいことながら心にもし気にもなっていることを少々記しておきたい。

 その一つは作中の人称代名詞の扱いである。作中人物のそれぞれに豊富な日本語の人称代名詞の中からどれを当てるか、その選択に迷うことがある。たとえば一人称単数の場合、女性なら「わたくし」、「わたし」あるいは「あたし」あたりが概ね適用される。男性なら「わたし」、「わし」、「ぼく」、「おれ」、あるいは「拙者」、「小生」と多岐にわたる。人称代名詞は、時に応じて形成される大小さまざまな人間世界の中で相互の位置関係を表示する標識である。だからこそ日本語では上記のようにそれを使い分けて表示する。使い分けられるだけの複数の代名詞が、日本語にはある。長幼、上下、身分、階級、また教育の有無がそれに反映するし、それぞれの性格もそれに滲ませることができる。

 作品を読み下していく中で、作中に各人物が占める位置、他の人物との相互関係を読み取って把握し、それにふさわしい人物像、性格を想定し、それに当てはまる人称代名詞を探す。それによって作中人物の相互関係が決定する。これは訳者の当然の仕事である。ただ、だからといって老人はつねに「わし」であり、述部の末尾も「~じゃ」では、常套的かつ陳腐で芸が無いことになるが。

 問題となるのは、同一人物でも状況によって代名詞が変わり得ることである。たとえば「わたくし」が「わたし」になり、「あなた」が「おまえ」になることがある。『タウロイ人の地のイピゲネイア』でのイピゲネイアの例であるが、姉弟再認以前は、イピゲネイアはオレステスに対して自らを「わたくし」と丁寧に(他人行儀に)表現しているが、再認後は「わたし」と砕けた表現になっている。またオレステスへの呼称も、最初の「あなた」から再認後は親しみの籠った「おまえ」となる。つまり互いの人間関係の濃度の変化に従って、人称表現の仕方が変わったのである。逆にいえば、人称表現の仕方によって、つまり人称代名詞を変えることによって互いの人間関係とその変化がより的確に表現されるということである。同様に『イオン』でのイオンは、母親との再認後、母親に対する自己表現をそれまでのよそよそしい「わたし」から親しみを込めた「ぼく」に変えている。こうした事例はどの作品にも少なからずある。

 人称代名詞はその人物の全存在を表示する。そして人称代名詞の使い方一つで作品の印象までも変わってくる。日本語の豊富な人称代名詞のどれを使うか、時と場合に応じてそれをどう使い分けるか、これも翻訳文作成の際にはあってしかるべき小さな気づかいの一つであると思う。そしておそらくそれは訳者が作中人物にどれだけコミットできるかにもよっている。

丹下和彦(関西外国語大学教授)

書誌情報:丹下和彦訳、エウリピデス『悲劇全集3』(京都大学学術出版会西洋古典叢書、2014年2月)