著者からのメッセージ

田中創:リバニオス『書簡集1』

 かれこれ10数年の付き合い。振り返ってみれば、かなりの時間をリバニオスの研究に費やしている。本来、私は初期ビザンツ帝国、とりわけ新首都コンスタンティノポリスの発展というテーマに関心があり、卒業論文でもコンスタンティノポリス元老院の筆頭を務めた哲学者テミスティオスを扱った。しかし、論文執筆の時点でリバニオスの書簡は既に何度も重要な史料として俎上にのぼり、そこから彼とは縁を持つこととなった。関連文献の入手もままならぬことが多く、当時から彼は相当の難物であったが、何とはなしに魅力を感じ、気づいたときにはリバニオスとその出身市であるアンティオキアの研究に没頭するに至っている。

 同時代人のエウナピオスは、どんな相手をも巧みに魅了してしまうリバニオスを蛸に喩えている(1)。相手に応じて自分の色を変える、変幻自在の彼の姿を捉えてのものだ。リバニオスの教室に色彩を変えるカメレオンの死体が呪術のために仕掛けられていたのも、このようなリバニオスに対する見解が同時代人に共有されていたからかもしれない(2)。エウナピオスの喩えが皮肉を込めたものであるかどうかはともかく(3)、この比喩は当を得ていると私は思う。リバニオス書簡の訳をしている最中でも、額面どおりに訳していいのかそれとも別の意味があるのか、迷ったことは数かぎりない。訳註でもそのあたりの「迷い」は十分に反映できなかった。しかし、ともかくも彼の蛸のような魅力に私がとりつかれてしまったことは間違いない。

 今回、訳出を試みた1,550通弱のリバニオス書簡は10年来の研究の中で徐々に蓄積してきた成果を改めて見直し、註をつけ、まとめたものである。長期間に亙る研究の成果であるだけに訳語の統一などには大きな困難が伴った。私自身も岩に張り付く頑迷な蛸となって、根負けしないよう臨んできたし、これからも同様に残りの分冊に取り組むつもりである。もっとも、かの犬儒派哲学者ディオゲネスでさえ蛸を食べて死んでしまったといわれてしまうぐらいだから(4)、一筋縄ではいかないだろうけれども。もしリバニオスに関心を持っていただける読者の方がいらっしゃるのであれば、どうか気長にこの苦闘を見届けていただければ幸いである。


(1)エウナピオス『哲学者およびソフィスト列伝』495-496 [Wright].
(2)リバニオス『第一弁論』249節。
(3)このあたりの事情はRobert J. Penella, “Libanius the Flatterer”, The Classical Quarterly 62-2 [2012], pp. 892-895を参照されたい。
(4)ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第6巻76;ルキアノス『生き方の売りたて』10.

田中創(東京大学)

書誌情報:田中創訳、リバニオス『書簡集1』(京都大学学術出版会西洋古典叢書、2013年12月)