著者からのメッセージ
丹下和彦:エウリピデス『悲劇全集2』
読むせりふ、聴くせりふ
しばらく前のこの欄に森谷宇一氏が翻訳にまつわる興味深い一文を寄せておられた。中国の啓蒙思想家厳復の翻訳論を引き、訳文は原文に忠実であること(信)、文意をよく伝えていること(達)、文章として上品であること(雅)、という三つの難事をこなすことが必要だということ、そして現在関わっておられるクインティリアヌス『弁論家の教育』の翻訳作業では、達・雅はもちろんだが、とりわけ信が大切だというような趣旨であった。
厳復の言う信・達・雅というのはまさにあらゆる翻訳作業の要諦で、これに一切異論はない。筆者は現在エウリピデスの全作品の翻訳を手掛けている。そこではこの信・達・雅をわきまえたうえで、さらにできるだけ簡潔にして平易であること、すなわちリーダブルな訳文でありたいと思っている。
モノは劇という文芸作品である。韻文で書かれている。そして実際に舞台上で上演された芝居のシナリオでもある。これをどう訳すか。文芸作品であると思うと「それらしく」と肩に力が入る。全篇韻文であり、しかも登場人物のほとんどが王侯貴族となるとべたな口語は使えなくなる。諸作品は長い年月の間に古典となり、今日ではそれは概ね読むことによって享受されている。それもあって訳文はややもすれば目に楽しい美文調に陥りやすい。しかし元来それは劇場で観客の耳によって享受されることを前提にしたシナリオだった。信・達・雅以外に、シナリオであるがゆえに、心すべきことがあるように思われる。それは耳に入りやすい日本語であるべきだということだ。
上でリーダブルと言った。読みやすいということである。だが本来は聴きやすいというべきかもしれない。いずれにせよそれはまずは平易であるということだ。平易が俗に流れることは厳に戒めなければならないが、とにかく耳から聞いてわかる日本語でなければならない。目に楽しい饒舌と文飾(たとえば漢語の多用)はこの際無用である。目で読むせりふと耳で聴くせりふとは、やはり違う。ただ願わくばその間の距離をできるだけ縮めたい。耳で聴く日本語がそのまま読める日本語でありたい。すなわち訳稿がそのまま上演台本になるのが理想である。
アリストパネスは『蛙』でエウリピデスにこう言わせた、「いや、わたしはお前(アイスキュロス)から、大仰な重ったるい文句で/ 膨れ上がった技を受け継ぐと、/ すぐに、まず軽い句や散歩運動や白ビートを用い、/ 書物から濾し取った饒舌の汁を与えて/ 減量させ、細身にした」(939~943行、内田次信訳)と。原作者がこう言っているのだ。翻訳する側がこれに従わぬという法はない。
丹下和彦(関西外国語大学教授)