著者からのメッセージ
中務哲郎:ヘシオドス『全作品』
ヘシオドスは神話学は固より、哲学・史学・文学いずれの分野にとっても重要な作家であるので、その『神統記』と『仕事と日』は早くから日本の学界に紹介され、翻訳も数種を数える。(文献書誌については渡邊雅弘編『日本西洋古典学文献史』が詳しい)。ヘシオドスの名に帰せられる作品13の中、真作と認められるのは『神統記』と『仕事と日』のみであるが、今回はこの他『ヘラクレスの楯』に加えて全ての断片と証言を訳出して「ヘシオドス全作品」と題した。
断片は1番から306番まであり、その過半を占めるのは『エー・ホイアイ(名婦列伝)』5巻であるが、初めてこれを通読して私が強く思ったのは、ギリシア叙事詩人の棲み分けということであった。よく知られているように、ホメロスの2作品はトロイア伝説をめぐる「叙事詩の環」にすっぽりと収まっている。即ち、キュプロスのスタシノスまたはキュプロス島サラミスのヘゲシアス『キュプリア』、ホメロス『イリアス』、ミレトスのアルクティノス『アイティオピス』、レスボスのレスケス『小イリアス』、アルクティノス『イリオンの陥落』、トロイゼンのアギアス『帰国物語』、ホメロス『オデュッセイア』、キュレネのエウガンモン『テレゴノス物語』の8作で、トロイア戦争の前史からトロイア滅亡後の物語までを包摂している。
一方、ヘシオドスの名の下に伝わる作品群は次のようなテーマを扱う。『神統記』は宇宙開闢から始めてカオス(原初の空隙)の子の系譜、ガイア(大地)の子の系譜、ウラノス・クロノス・ゼウスと続く天の支配者の交替、ゼウスと女神たちの結婚、(この後は偽作説も強いが)死すべき男と添い臥しした女神たち、を歌う。そして、現行の『神統記』の末行、
「さあ今度は、女らの族(やから)を歌って下さい。アイギスを持つゼウスの姫君、オリュンポスに住む言の葉甘き詩神(ムーサ)たちよ」
は『名婦列伝』開巻の2行に他ならないから、ヘシオドス以後の編集者がこの2行を『神統記』に加えて『名婦列伝』に繋ごうとしたことが知られるのである。
その『名婦列伝』は『神統記』の最終部分とは反対に、神々と契って英雄を生んだ女たちを歌うが、人祖デウカリオンから始まり、アイオロスの子孫、イナコスの子孫等々と下り、アトレウスの子孫まで来て、ヘレネの求婚者の記述で突如として終わる。他の詩人が歌うトロイア戦争やテーバイ戦争は扱わないという姿勢を明確にしているのである。『名婦列伝』はまた、神々と人間が宴を共にすることが絶え、常春の世界に夏冬の区別が生じたことを伝えるから、トロイア戦争と共に英雄時代が終わるとする世界観を持っていたようである。
今回私がヘシオドスの真作2篇のみならず全断片と証言をも訳出したのは、ホメロスと比べると低調の感を否めないヘシオドス研究に新たな弾みをつけたいと思ったからであった。断片は100行を超える内容豊かなものもあるものの、多くは文脈を把握し難い断簡零墨であるが、しかしそれだけに、「ペリボイアがアマリュンケウスの子ヒッポストラトスによって陵辱されたので、父ヒッポノオスは彼女を、アカイア地方のオレノスから、ギリシアから遠く離れて住むオイネウスの許に送り、殺すよう命じた」(パラフレーズ断片84)などという孤立した記事に出会うと、この女性の運命に思いを馳せざるをえないのである。
この断片は、伝アポロドロス『文庫(ギリシア神話)』(1.8.4)がヘシオドスをパラフレーズしたものである。『文庫(ギリシア神話)』の記述の順序・構想は『名婦列伝』のそれとよく対応するが、話の細部については異同が多い。ヘシオドス断片の訳が神話の異伝の研究に裨益するよう祈っている。
中務哲郎