著者からのメッセージ
森谷宇一・戸高和弘・吉田俊一郎:クインティリアヌス『弁論家の教育3』
中国は清末民初の啓蒙思想家にして翻訳の大家として知られた厳復は、翻訳の要諦を次のように喝破した──「譯事三難信達雅」(『天演論』譯例言)。つまり翻訳は、(原文に)忠実であること、(文意を)よく伝えていること、(文章として)上品であること、という三つの困難とかかわるというわけである。
もっとも現代ではこのような翻訳観は、どうも多分に観念(理想主義)的で時代遅れとみなされるようである。それどころか、上記三つの困難な目標をひとしく完全に達成することなどしょせん不可能である以上、めざすべき最上位の目標は、翻訳という営みの目的からして本来的に肝要ともいうべき「達」、すなわち(文意を)よく伝えていることだとするのも、まことにもっともなことといえよう。そしてこのような翻訳観をさらに一歩進めれば、もっぱらわかりやすさをねらった訳ということになる。近年目にするようになった「超訳」という言葉や、またそれを売り物にしているかのような一部の出版物は、まさにこうした時代の流れに棹さしているのである。
それに実のところ、翻訳がかかわるとされた上記三つの困難な目標のうち、「達」([文意を]よく伝えていること)がきわめて普遍妥当的なものであるのに対し、「信」([原文に]忠実であること)と「雅」([文章として]上品であること)との比重は原文テクストの性質ないし種類によって多分に異なるというべきであろう。というのも、(1)原文テクストが古典ないしそれに準じたものであるか否か、(2)原文テクストが文芸作品ないしそれに準じたものであるか否か、によって事は大いにちがってくるからである。
前置きが長くなってしまったが、われわれが翻訳しているクインティリアヌスの『弁論家の教育』という著作は、第一級というほどのものではないにせよ(ただしレトリックの領域では超一流の)まぎれもなく古典であり、またおよそ文芸作品ではなくて純然たる理論書である。とすればその翻訳においては、「雅」はひとまずおくとして、「達」は当然のことながら、「信」もやはり大いに尊重すべきだということになるのではなかろうか。これを原文のラテン語に即して少しこまかしくいえば、できるかぎり原文の接続法や小辞も訳文に反映させ、できれば文の構造や語順や句読法においても原文に近い訳文とするというようにである。
このような翻訳の方針にはたしかに異論もあろう。つまり古典的な理論的著作であっても、「達」を第一の目標とする以上、原文にあまりとらわれないでもっと自由闊達な訳をすべきであって、そのようにしてこそ達意の訳も可能になるというわけである。
このような反論に対しては、誤解を恐れずにあえて言えば、巧みで気がきいてはいるがやや不正確でずれた訳になるぐらいなら、愚直で不器用ではあるが正確な訳をわれわれはめざすということになろうか。このことに関連して、直訳か意訳かという永遠の問題についても一言すれば、日本語として意味の通じないような直訳など論外ながら、日本語(正確には、世にいう「日本語らしさ」)に迎合したような意訳も潔しとしないということである。ともかく字句の上でも内容の上でも、不足な訳も過剰な訳もなるべくしたくないものである。
なお最後に付言すれば、理論的著作の翻訳であるからには当然ながら、術語、われわれの場合でいえば弁論術ないしレトリックのテクニカル・タームの訳出には、最大限の神経を使ったつもりである。つまりこの点では、訳語としての適切さをめざすとともに、できるかぎり訳語としての統一性を心がけたということである。
森谷 宇一(大阪大学名誉教授)
書誌情報:森谷宇一・戸高和弘・吉田俊一郎訳、クインティリアヌス『弁論家の教育3』(京都大学学術出版会西洋古典叢書、2013年1月)