西洋古典学への誘い

西洋古典学を学ぶきっかけ

 私の専門は古代ギリシア哲学です。ここでは学部時代に話を絞り、私と古代ギリシア哲学との出会いについて記していこうと思います。それは私にとって、或る先生との出会いの記録です。

 私は日本史を学ぶつもりで大学に入学しましたが、実際に学んでみると少し自分の興味関心と異なるなと思っていました。そんな折、選択科目で哲学史の講義を受講しました。何かしら漠然とした「期待」のようなものがあったのかもしれません。そこで行われた講義の内容はほとんど忘れてしまったのですが、ひとつだけ鮮明に覚えていることがあります。それは、デカルトについての回です。今にして思うと、その内容は明らかに学部生向けの哲学史講義のレベルを超えていましたし、当時はほぼ何も理解できなかったのですが、「世の中にはここまで難しいことを考える学問があるのか」と強い衝撃を受けました。その講義を担当されていたのは、ライプニッツ研究者の故・松尾雄二先生です。居ても立ってもいられず、その翌日に松尾先生の研究室に押しかけ「哲学を教えてください」と頼みこんでいました。様々な意味でとんでもない頼み事に、松尾先生は「それではプラトンを一緒に読みましょう。『メノン』という本を買っておいてください」と返答されました。これが、私の哲学との出会いであり、同時に西洋古典学との出会いです。

 その後、『メノン』を一通り邦訳で読んでしまうと、古代ギリシア語の学習に入りました。地方国立大学に古典語の授業などなく、松尾先生とマンツーマンの勉強会のようなものです。「僕はギリシア語は苦手なんだよね」と謙遜されていましたが、実際には、九州大学出身の松尾先生は松永雄二先生(九州大学名誉教授)やその周りの方々からギリシア語やギリシア哲学をしっかり学ばれていました。その後、卒業論文をアリストテレスの『カテゴリー論』で書いてみたいと相談をしたときも「アリストテレスをやるなら『形而上学』にトライしてみたらどうか」とアドバイスしてくださいました。実際にそこで行なった本質概念と定義概念の研究は博士論文に至るまでの私の研究の方向性を決定づけています。

 私に対していつも優しかった松尾先生が一度だけ激怒されたことがあります。それは、いつもの勉強会終了後、私が「アリストテレスの哲学的著作はともかく、科学的著作については時代遅れでまったく役に立たないですよね」と不勉強も甚だしい発言をしたときです。松尾先生は厳しい口調で「そんな態度では古典に向き合う資格はない」とだけ言われて、研究室を出て行かれました。当時はピンとこなかったこの発言の意図について、今ならはっきりとわかります。仮に或るテクストで述べられている理論が時代遅れのものだったとしても、その理論が提示された文脈を探ることで著者の哲学的思考を抽出することができます。そしてその哲学的思考は「役に立たない」どころか、現代とは異なった知見をわれわれに与えてくれるものなのです。古典的テクストに向き合う際に必要な真摯な態度についても、私は松尾先生から学ぶことができました。

 松尾先生との出会いがなければ、哲学、ましてや古代ギリシア哲学を学び始めることはありませんでした。その意味で、私にとって、古代ギリシア哲学との出会いは松尾先生との出会いとイコールだったのです。

2018/7/2
酒井健太朗(九州大学大学院人文科学研究院助教)