西洋古典学への誘い

西井奨:西洋古典と『走れメロス』(2)

 太宰治『走れメロス』が古代シチリア島を舞台とするのはヒュギーヌスの伝承に由来するシラーの詩の通りである。しかし、

「メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。」

というように、メロスを「村の牧人」としたのはヒュギーヌスにもシラーにもない太宰オリジナルの設定だ。これはメロスの「純朴さ」「愚直なまでの正義感」を描出するためだろう(五之治昌比呂「『走れメロス』とディオニュシオス伝説」『西洋古典論集』16 (1999), 39-59, 56)。しかし結果として設定されたこの「シチリアの牧人」という存在に思いを馳せる時、シチリアの牧人たちを巧みに描いたテオクリトス『牧歌』を頭に浮かべずにはいられない。

 ヘレニズム時代の詩人テオクリトスは牧歌(田園詩)というジャンルの創始者とされ、彼自身、シチリア島シラクサ市出身であると考えられている。彼の『牧歌』第1歌は、シチリア島の羊飼テュルシスと山羊飼(名前は呼ばれない)の対話の形をとったものであり、テュルシスの次のような台詞から始まる。

{ΘΥΡΣΙΣ}
Ἁδύ τι τὸ ψιθύρισμα καὶ ἁ πίτυς, αἰπόλε, τήνα,
ἁ ποτὶ ταῖς παγαῖσι, μελίσδεται, ἁδὺ δὲ καὶ τύ
συρίσδες· ... (Theocritus Idyllia 1. 1-3)
[テュルシス]
甘くささやく松の木は、あそこの泉のほとり。
山羊飼よ、君の葦笛も甘くひびく。
(テオクリトス、古澤ゆう子(訳)『牧歌』京都大学学術出版会(西洋古典叢書)、p. 4)

このように羊飼テュルシスは、相手の山羊飼の笛を褒める。その一方、山羊飼は、

{ΑΙΠΟΛΟΣ}
ἅδιον, ὦ ποιμήν, τὸ τεὸν μέλος ἢ τὸ καταχές
τῆν' ἀπὸ τᾶς πέτρας καταλείβεται ὑψόθεν ὕδωρ.  (Id. 1. 7-8)
[山羊飼]
羊飼よ、君の歌は、あそこの岩の高みから
流れ落ちる水音より甘い。(上掲書、p. 4)

と、羊飼テュルシスの歌を褒める。

 ところで『走れメロス』の「メロス」は、ヒュギーヌスやシラーの綴り(Moerus, Mörus)に倣うなら“Meros”だが、太宰治『走れメロス』のヨーロッパ諸語訳はどういうわけか“Melos”と綴られている。ドイツ語訳でさえ Lauf, Melos, lauf! というタイトルだ。このmelosという言葉は、山羊飼が羊飼テュルシスに「君の歌(μέλος)は……より甘い」と言ったのに奇妙に符合する。そういえばメロスも羊飼であった。メロスは羊と妹を、妹の結婚相手に託し、村を発ち友のためシラクサへ向かう。隣村に辿りついた頃、気持ちが少し落ち着いたメロスは、

「額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。」

と、小歌を「いい声で」歌う。

 さて『牧歌』第1歌での羊飼テュルシスも、山羊飼に頼まれて歌うことになる。

{ΘΥΡΣΙΣ}
Ἄρχετε βουκολικᾶς, Μοῖσαι φίλαι, ἄρχετ' ἀοιδᾶς.
Θύρσις ὅδ' ὡξ Αἴτνας, καὶ Θύρσιδος ἁδέα φωνά. (Id. 1. 64-65)
[テュルシス]
はじめてください、親しいムーサイ、牧人の歌をはじめてください。
これなるテュルシスはエトナの生まれ、テュルシスの声は甘い。(上掲書、p. 8)

 エトナはシチリア島の有名な山だ。テオクリトスの作中の、シチリアの羊飼テュルシスの歌(μέλος)の「甘い」声を思う時、シチリアの羊飼メロスが「いい声で」歌った小歌も同じ「甘さ」があったのではないかとふと考える。もちろん太宰の創作時にテオクリトスは念頭になかったであろう。メロスが、山羊飼でも牛飼でもなく、羊飼であるのもただの偶然だろう。しかし、偶然がもたらしたメロスとテュルシスの微妙な重なり合いにささやかな楽しみを見い出すのも、西洋古典を味わう醍醐味の一つといえるかもしれない。

Albrecht Dürer (1472-1528), Enluminure Gouache L'Idyllia De Theocri
www.albrecht-durer.org
(画像は、アルドゥス・マヌティウス版のテオクリトス『牧歌』の刊本に、デューラーが彩飾したもの)

西井奨(京都大学・同志社大学・大阪大学)