古典学エッセイ

渡邉雅弘:葉皮休綠斯、綠骨列由私、岳私仙迭由私つて、誰のことか、わかりますか(增訂版)―古典受容における人名表記の問題―

「いかに大きな幹であっても、枝葉がそれを支えている。その枝葉を忘れて、幹を論じてはいけない。その枝葉のなかに大切なものがある」(宮本常一)

 この度完結した拙編『日本西洋古典學文獻史』第4巻(電子版)を、日本西洋古典學會のホームページ上で公開して戴いた。公開の場を與へて下さつた中務哲郎先生と學會、原稿をpdf化して下さつた竹下哲文先生には、感謝の言葉もない。

 本『文獻史』全4巻は、「述べて作らず」の編年體書誌である。忘れられた文獻、人物といふ枝葉や細部を拾ひ上げ、些事累々たる關聯史料を採錄した虫瞰圖である。賽の河原で、崩れる小石を積み上げるやうな、膨大な魔界の文獻世界をさまよふ敗北必至の作業だつた。低空飛行をする以上、鳥瞰圖は提供できない。網羅もありえない。俄仕立ての書誌のため、無駄と思はれる記事の補遺・追加などは無様といふべく、誤字・誤記等の訂正も追ひつかない不手際も殘つてゐる。しかし、書を校すは、塵を拂ふがごとしと、知つた。

 師・澁澤敬三の次の言は、「枝葉」にこだはる民俗學者・宮本常一の心に沁みとおつたといふ。旅をして旅をして聞き書きを取り、忘れ去られてゆく世間と人の生活の細部に精通する凡事徹底が、名篇「土佐源氏」に結晶するやうな、「世間師」宮本常一の身上だつたであらう。それは同時に、陰に生きる文獻學のたたずまひであり、書誌の華でもあるとすれば、本『文獻史』もまたその末席に聯なる落穂拾ひの「隙間産業」といふしかない。もとより『文獻史』は、「エピクロス・ルクレティウス」研究の邦文先行文獻の書誌作りといふ、ささやかな作業に端を發してゐる。當時、本格的な邦文『エピクロス研究』は一册もなく、從つて必携の書誌も整つてゐなかつた。

「大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況を見ていくことだ。舞台で主役を務めていると、多くのものを見落としてしまう。その見落とされたもののなかにこそ大切なものがある。それを見つけてゆくことだ。人の喜びを自分も本当に喜べるようになることだ。人がすぐれた仕事をしているとケチをつけるものも多いが、そういうことはどんな場合もつつしまねばならぬ。また人の邪魔をしてはいけない。自分がその場で必要を認められないときは黙ってしかも人の気にならないようにそこにいることだ」 (佐野眞一『旅する巨人—宮本常一と渋沢敬三』文春文庫)。

 さて、その些事の些事たる、「エピクロス」の人名表記の問題である。川柳「ギョエテとは俺のことかとゲーテいひ」(齋藤綠雨?)と揶揄されるほど、ゲーテの人名異表記は45種もあるといふ。ギョエテを嗤つてはゐられない。管見の限りでは、「エピクロス」の異表記は、これまで56種ほどを數へる。無論「ソクラテス」、「プラトン」、「アリストテレス」のそれは、さらにこの比ではない。先達が工夫を凝らし、試行錯誤を繰り返した表記の系譜が絡み合ひ、現在ではカタカナ表記「エピクロス」に定着してゐる。原語からすれば、むしろ「エピクウロス」あるいは「エピクーロス」が適切かと思はれる。確かに戰前、「エピクーロス」は頻出してゐる。しかし、寡聞にして「エピクウロス」の用例を見ない。ひらがな表記「ゑ[え]ぴくろす」もまた、用例を見ない。

 以下は、カタカナ表記「エピクロス」への定着過程の素描である。『文獻史』に未採錄の記事は、その旨明記する。長母音、短母音などを區別した、多數の異表記の詳細については、『文獻史』第4巻末の「人名索引」を參照願はしい。

 エピクロスの本邦初出文獻は、切支丹文書ではないだらうか。正確な發音はわからない。

文祿3[1592]「エピクロ(Epicuro)といふ惡逆無道なる者」(未採錄。天草學林版『ヒデスの導師、一名信心錄』ルイス・デ・グラナダ著イスパニア語原著、ローマ字本・文語譯。姉崎正治飜刻。)

 その後に現はれる漢字宛字表記の用例の採錄は以下のごとくである。やはり正確な發音はわからない。

天保7[1836]「葉皮休綠斯」(帆足萬里『窮理通(8巻)』。「葉」は漢音ではイエであらうか。蘭語由來の宛字はイエヒ[ピ?]キュロスと讀むのかどうか。續く人名は、同派の綠骨列由私[ルクレティウス]、近代における復興の雄・岳私仙迭由私[ガッサンディ])
明治8[1875]「埃比哥列斯(エピクレス)」(西周「人世三寶説」明六雜誌38)
明治10[1877]「亞比加列耶(アピカレス)」(大橋素六郎「希臘理學者言」同人社文學雜誌18)
明治13[1900]「以彼古羅」(井上哲次郎「倫理之大本」學藝志林7-38)
明治14[1881]「以彼古羅學派」(和田垣謙三編『哲學字彙』)
明治16[1883]「彼古羅」(井上哲次郎『倫理新説』)
明治17[1984]「以彼古羅學派」(井上哲次郎、有賀長雄補『改訂增補 哲學字彙』)
明治17[1984]「以彼古羅」(ダヴッド・ヒューム著/土居言太郎譯『政治哲學論』第2巻)
明治32[1899]「以彼古羅」(廣井辰太郎「奇蹟斷案 (3)」六合雜誌223)
明治45[1912]「依比格刺斯」・「依比格刺斯學派」(井上哲次郎等『英獨佛和 哲學字彙』)
昭和8[1933]厄比鳩底樂生哲學』(書名。斯米德[Heinrich,Schmidt]著、鄭君哲譯、東京帝大圖書舘藏)

 アルファベット表記の人名と「エピクロス學派(主義)」、「美食」は數例ある。(「人名索引」中の「Epicuros學派」は誤記である。)

明治2[1869]「Epicure」・「Epicurism」(「奢侈□□スル人 美食スル人」・「エピキュリスノ敎 美食奢侈」。堀達之助『改訂增補 英和對譯袖珍辭書』)
明治14[1881](「以彼古羅學派」。和田垣謙三編『哲學字彙』)
明治16[1883]「Epicure」・「Epicurean」・「Epicurism」(「食色之徒」・「食色□」・「食色之道」。羅布存德[ロブスチード]原著/井上哲次郎增訂『增訂 英華字典』)
明治28[1895]「Epicurus」(「黄金の砂」日本英學新誌70)
明治45[1912]「Epicurus」・「Epicureanism」(「依比格刺斯」・「依比格刺斯學派」。井上哲次郎等『英獨佛和 哲學字彙』)
大正8[1919]「Epicure」(北村初雄「Epicureの部屋(詩)」三田文學10-4)
大正12[1923]「Epikouros」(未採錄。田中秀央・落合太郎編『ギリシア・ラテン引用語辭典』66頁)
昭和3[1928]「Epicurean」(W.Pater論。京都帝大文科卒論1例。→昭和4、諸大學英文科卒論2例。昭和5、諸大學英文科卒論4例。昭和7、同志社大學英文科卒論1例)

 カタカナ表記の用例はどうか。いまだ「エピクロス」用例の現はれない江戸末期から明治30年前後まで、上記の漢字宛字表記とカタカナ表記が多數混在してゐる。大西祝や井上哲次郎、朝永三十郎のやうに、同じ著者が「エピクロス」と「エピクーロス」などを併用する例も少なくない。以下、數例を引く。未見のため、當時のさまざまな蠻語「和解」、字彙、字引、西洋史書等における他の用例を引くことができない。

天保4[1833]「エピキュリス(Epikureesch)の肥し豕 飲食樂みのみする人を云「エピキュリス」は昔の學者の名なり此人の敎には飲食樂みを專と爲し居れり依て如斯言ふ」(未採錄。蘭語原文にない、長崎通詞による苦心の註記。蘭日字引『道布波留麻(ヅーフ・ハルマ)』。所謂長崎ハルマ。杉本つとむ『西洋文化事始め十講』より引用)
天保6[1835]「「エヒキュルス」ハ元來アテネ都ニ生レ、其齢三十二ニシテ、官命ヲ受ケテ學師トナレリ」(未採錄。本邦最古の西洋哲學史稿。高野長英「西洋學師ノ説」自筆稿本『聞見滿錄・海外學術ノ部』。佐藤昌介校註。)
安政2[1855]「エピキュルス」(桂川甫周[國興]『和蘭字彙』。『ヅーフ・ハルマ(道布波留麻)』とほぼ同内容)

 「エピクロス」の用例は、その途次の、明治22年には既に認められ、それ以降斷續的、散發的に現はれる。コルリール著/河津孫四郎譯『西洋易知錄』上巻(明治2)には「希臘」の記述がない。本邦初の刊本による「希臘哲學」の紹介と言はれるパーレー著/牧山耕平譯『萬國史』(明治9)は「プラトー」で終はり、末松謙澄『希臘古代理學一斑』(明治16)、井上哲次郎『西洋哲學講義(6巻)』(明治16-17)もまたヘレニズム時代まで記述が及ばない。今野一英編纂『西洋哲學士列傳、一名哲學小史(1巻)』(明治17)は、「ソクラテス氏ノ傳」で中斷した。中江篤介[兆民]の譯本、三宅雄二郎の著書、ドロイゼンを受けて初めてヘレニズム思想を文明史的に扱つた劃期的な坂口昂の著書にも、いまだ「エピクロス」は登場しない。

明治12[1879]「エピキュラス」(吉田五十穂譯纂『伊呂波分 西洋人名字引』私家版)
明治16[1883]「エピクュル」(「主念ハ五官若クハ本心ヨリシテ生ズルヲ得ズ 經驗學派ノ説ヲ駁ス」歐米政理叢談34)
明治17[1884]「エピキュール」(アルフレット・フーイエ著/中江篤介譯『理學沿革史』上巻)
明治17[1884]「エピカルス」(ヂォジェ子ス著/シ・ヂ・ヤング譯註/谷本富重譯「哲學ノ濫觴」學術志叢9。「哲學者列傳」の本邦初の簡單な紹介)
明治22[1889]エピクロス學派」(大西祝「古代希臘の道德と基督敎の道德」專門學會雜誌10。「エピクロス」表記の初出か)
明治23[1890]「エピクロス」(浮田和民「道德之起原」六合雜誌116,117)
明治30[1897]「エピクロス」(雜報「哲學思潮と西歐文學」帝國文學3-2)
明治31[1898]「エピクロス」(本田增次郎「貞潔の德について」六合雜誌208)
明治32[1899]「エピクロス」(評論境「文學と社會」東京獨立雜誌36)
明治32[1899]「エピキユラ[ロ]ス」(未採録。三宅雄二郎講述『希臘哲學史』)
大正6[1917]「エピキュリア」(未採録。坂口昂『世界に於ける希臘文明の潮流』)

 その後の「エピクロス」表記の定着過程で注目に價するのは、大御所・井上哲次郎(通稱イノテツ)の隱然たる權威と影響の下に、この表記が(東京帝大文學部)『哲學雜誌』と『帝國文學』を中心に、『六合雜誌』、『丁西倫理會倫理講演集』、『東洋哲學』などの論考や記事に頻出し、大正期から戰前昭和期にほぼ一本化されることである。定着への分岐點は二度ある。西洋哲學史の諸刊本における表記をも含めれば、明治34年頃がその最初の分岐點かと思はれる。なほ第二の分岐點は、昭和9年頃と推定される。昭和16年以降の最終的一本化とその流布、および研究の權威となつた東大敎授・出隆(通稱フタヤマ君)による踏襲は、その歸結にすぎない。その特徴は、表記「エピクロス」と標語「隱れて、生きよ」が一對で言及される點にある。それ以前にはないことである。

明治31[1898]「エピクーロス」(未採錄。中島力造編『改版增補訂正 倫理學説十回講義』)
明治31[1898]「エピクーロス」(未採錄。中島力造編『列傳體西洋哲學史』上巻)
明治33[1900]「エピキュラス」(未採錄。加藤玄智編『問答體哲學小史』)
明治33[1900]「エピクロス」(彙報・井上哲次郎講演(哲學會秋季大會)「利己主義と功利主義」哲學雜誌166)
明治34[1901]エピクロス」(井上哲次郎「利己主義と功利主義」哲學雜誌167)
明治34[1901]「エピクロス」(リギュル著/前田長太譯「現社會に於ける哲學の本分」哲學雑誌173)
明治34[1901]「エピクロス」(未採錄。波多野精一『西洋哲學史要』)
明治34[1901]「エピクロス」(未採錄。綱島榮一郎『西洋倫理學史』/ヂン・ワトソン著/綱島榮一郎譯『快樂派倫理』)
明治36[1903]「エピクーロス」(未採錄。大西祝遺著『西洋哲學史』上巻、大西祝全集3)
明治36[1903]「エピクロス」(雜錄「懷疑と自殺」帝國文學9-9)
明治36[1903]「エピクロス」(藤井健次郎「倫理宗敎學新論」六合雜誌268)
大正2[1913]「エピクロス」(吉田絃二郎「ルミイ・ド・グウルモン」帝國文學19-4)
大正7 [1918]「エピクロス主義」(桑木嚴翼「意志よりの解放」丁西倫理會倫理講演集185)
大正13[1924]「エピクロスの快樂」(一幕喜劇。長與善郎作。歴史物傑作選集3)
昭和3[1928]「エピクーロス」(中村安之助「エピクーロス學園生活を忍びて、現代の精神界に及ぶ」東亞の光9-3)
昭和10[1935]「エピクロス」(今泉三良「エテイエンヌ・ジルソン著「中世哲學の精神」」哲學雜誌575)
昭和11[1936]「エピクロス」(頼阿佐夫「(唯物論者評傳)エピクロス」唯物論研究45)
昭和16[1941]「エピクロス」 (山内得立「快樂」岩波講座倫理學9)

 人口に膾炙してゐる、標語の譯言「隱れて、生きよ」は、今のところ昭和9年初出と確認できる、葉上照澄の譯言である。それ以前に初出を遡りうるかどうかは、不明。

大正12[1937]「Epikouros」・「生活してゐて人目を避けよ」(未採錄。田中秀央・落合太郎編『ギリシア・ラテン引用語辭典』66頁)
昭和9[1934]「エピキュラス」・「(斷片)八十六。知られないで生きよ」(ラエルチオス・ヂオゲネス著/曉烏武雄譯『エピキュラスの哲學』。本邦初の「エピクロス全集」邦譯。英譯からの重譯。稀覯書)
昭和9[1934]「エピクロス」・「賢者は、隠れて生きよ(Λάθε βιώσας)の原則を墨守する」(葉上照澄譯『ユーベルヱーク大哲學史/古代篇下巻』128頁)
昭和16[1941]「エピクロス」・「隱遁して生活せよ」(獨譯からの重譯。河東涓「エピクロスに就いて(2)」哲學雜誌648)
昭和16[1941]「エピクロス」・「隠れて生きよ(lathe biōsas―生活しながら人目を避けよ)」(出隆「コスモポリテースの倫理思想」岩波講座倫理學9。田中秀央・落合太郎編『ギリシア・ラテン引用語辭典』と 葉上譯の折衷)
昭和30[1955]「エピクロス」・「隠れて暮らせ」(ツエラー著/大谷長譯『ギリシャ哲學史綱要』)
昭和34[1959]「エピクロス」・「隠れて、生きよ」(斷片86。出隆・岩崎允胤譯『エピクロス─敎説と手紙』岩波文庫。葉上譯を踏襲) 
昭和38[1963]「エピクロス」・「隠れて生きよ」(戸塚七郎抄譯。河盛好盛編『世界人生論集1』 所収)
昭和40[1965]「エピクロス」・「隠れて生きよ」(森進一抄譯。『世界文学大系63』所収)

 出隆は戰前の東京帝大文學部を「知性の淫󠄀賣窟」と罵倒した。戰後、「朝日岩波文化人」が續出する以前の東京帝大である。井上哲次郎以來のその「傳統」の中で、出はデモクリトスで終はり「エピクロス」の登場しない『西洋哲學史I』(昭和4)を上梓した。昭和6年度文學部講義題目「ヘレニスト時代の哲学」と、同講述『西洋哲學史・第1部(1-3)』(昭和12)の内容は、確認できてゐない。その後、この葉上照澄による表記と譯言は、上記論文「コスモポリテースの倫理思想」(昭和16)および岩波文庫版邦譯『エピクロス』(昭和34)に踏襲された。敗戰直後の出講義錄『古代原子論哲學(2册)』(昭和21)に「エピクロス」と「隱れて、生きよ」の一對があるか否かは、不明である。當時「一流の」岩波文庫版譯本は改版改譯、新譯も刊行されずに版を重ねて、戰後を席捲した。「エピクロス全集」の原典邦譯は、今なほ岩波文庫版邦譯、あるいは同内容の『ワイド版岩波文庫エピクロス』(平成14)が、文字通り「一册の本」になつてゐる。

 出隆は、戰後「雨後の筍のごとく」に現はれた、革新主義「進歩的文化人」の一人である。譯言「隱れて、生きよ」を最初に踏襲した昭和16年頃、マルクス主義と無緣であつた出は、戰後、「戰闘的唯物論者」に豹變し、昭和23 [1948]年、日本共産黨に入黨した。その後、26[1951]年、東大敎授の職を辭し、東京都知事選に無所屬で立候補して落選した。饒舌が過ぎる「日和見」と酷評された出は、ちつとも「隱れて」ゐなかつた。岩波文庫版譯本『エピクロス』が共譯されたのは、出がいまだ除名されず、日本共産黨々員に甘んじてゐた昭和34[1959]年である。出に託された岩崎允胤のおよそ10年をかけた下譯が、共譯となつた。

 出隆と岩崎允胤は、なぜC・ベイリイの杜撰な校訂本を底本とする英譯附「エピクロス全集」を敢へて邦譯したのか。なぜ、「逃避的個人倫理」の標語「隠れて、生きよ」の踏襲にこだはつたのか。かつて竹山道雄が「新ソフィスト時代」と難じ、疑似宗敎化したマルクス主義を絶對とする立場からすれば、飜つて「初期マルクス」、「學位論文」、いはんや古代唯物論者の「エピクロス全集」を讀み解く價値はないはずである。「自分自身の中へと退却」して、「快なる生活に立て籠り」、「たたかはない」のが、エピクロスである。いづれも月の前の燈でしかなく、ことに「逃避保身の哲學」者エピクロスは「マルクスにさきだつフォイエルバッハたるより以上ではありえなかった」(岩崎)。刊行後、岩崎允胤のこの浮ついた解題は嘲笑を買つたといふ。エピキュリアン林達夫は、「空語!空語!空語!」と言つた。

 このマルキスト師弟は、マルクスの「フォイエルバッハ・テーゼ」に沿つて、「エピクロス全集」を共譯した。世界の解釋に終始する「哲學の貧困」を嗤つたマルクスの、世界の變革を哲學の使命と標榜したテーゼである。「エピクロスとその徒は『隠れて生きよ』という箴言の示すように、現存の国家社会を変革しようとするのではなく、その反対に、そこから身をしりぞけ(る)・・・。(戰後の)わが国の状況は・・・しかしそうではない、断じてそうであってはならないのであった」(岩崎)。マルクス主義の前々座にすぎないエピクロスの譯言「隠れて、生きよ」は變革と革新の反語であり、裏返しの「マルクス主義の勸め」だつたと言へやう。「ここがロードス島だ、飛べ!」。出隆の戰後の豹變をなぞるかのやうな、マルクス主義への反轉跳躍を勸めるこの譯言は、文字通りに受け取つてはならない、否定さるべき空語だつた。「たたかふ」エピクロスは、「隠れて、生き」てなどゐられないからである。

 「エピクロス」の音譯はこれでよいか、「隱れて、生きよ」は名譯か、迷譯、誤譯の可能性はないか。この一對の定着を訝しみ、矛盾を指摘する人はほとんどゐない。出隆の直弟子の中には、「恰も隠れてなどいないように隠れる」とか、「孤独な隠遁生活を意味しない」と辯解する向きもあつた。それどころか出典を「エピクロス」と知らずに、一人歩きする譯言「隱れて、生きよ」を人生の金言、指針とする人も意外に多い。鵺のやうなこの名迷譯によつて、「エピクロス」理解は遠のくばかりのやうに思はれる。

渡邉雅弘