古典学エッセイ

西塔由貴子:The Herodotus Marathon 2020 〜西洋古典学とグローバリゼーション〜

 私は、機械は苦手である。2020年以降オンライン、ハイブリッド、ハイフレックスなど、意味のわからない用語と数々の ID や PWに囲まれ、コンピューターに振り回され(現在進行形である)、今やオンラインに関連する事項はすべて避けている。携帯電話は携帯しない。オンライン上で話を聞いても何故か頭に入っているようで入ってこない。つまり聞いてないのである。

 そのような生きた化石状態の私が、オンラインも悪くないと思えた企画に参加したので、ここで西洋古典学もオンラインでここまでできると、その潜在性を含めてレポートさせていただきたいと思う。

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 コロナ禍のため過去2年ほど、通常の形態での学会・研究会は開催されていない。Zoom や Teams を使ったオンラインでの開催が主である。2022年になってやっと人数制限で開催、その一方でライブ配信という形になってきた(開催する側の負担倍増である)。物足りない。

 タイトルにある The Herodotus Marathon のことは知っていた。The Herodotus Helpline( https://herodotushelpline.org)が立ち上がったのは 2020年4月である。何か新しいことをしようという思いからか、Herodotus Marathon 2022が起案された。平たくすると、「ヘロドトス『歴史』全巻、地球上をオンラインでジグザク横断、リレー形式で、さらに多言語で読んでしまえ」企画である。セント・アンドルーズ大学で出会った友人のトム(T. Harrison https://www.st-andrews.ac.uk/classics/people/tehh/)が発起人の一人である。相変わらず面白いことしてる、と思いながら、このマラソン朗読は欧州内で実施するのだろうと私は勝手に推測していた。

 が、別の友人から「日本語がないらしい、どうか」という連絡が回ってきた。彼女ともセント・アンドルーズ大学時代から20年以上の付き合いである。読めばいいのだろう、松平訳も持っていると、気軽な気持ちで引き受けた。

 実はライブ配信で、その後 YouTube にアップするということを、引き受けた後に HP を読んでから知った(https://herodotushelpline.org/events/)。

 参加するためのマニュアルやZoom のリンクが来たのは直前だった。組織している人々は、相当緊迫していたのだろう。全9巻を節毎に分け、担当者、その言語を割り当てるエクセルファイル作成の作業を考えただけでも恐ろしい。

 Zoom 上で読み手が朗読している間、YouTubeの画面上には、読み手の顔か名前が画面右上に小さく写り、中央画面には古代ギリシア語のテキストと英訳(Loebが使用されていた)が掲載され、同時進行であった。参加者である読み手には、「次の節に行くときに手を挙げて、自分の箇所を読み終えたら手を振ってね」という簡単な指示があった。そうすると、YouTube を運営している人間が、その発声されている言語がわからなくても画面上のテキストを進めていくことができる仕組みであった。なるほど。

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 参加者は世界各国から老若男女、総勢200人以上。トムと運営した人々の人望である。

 豪州のある教育機関では、教室にコンピューターを一台置いて、その前に学生が一人一人交代で入れ変わって『歴史』の担当箇所を読んでいた。楽しそうだった。これを授業(または演習)にした教員も、そういうことができる環境にあること自体も素晴らしい(日本で実施すると教育機関に電話がかかってきそうである)。視聴者として微笑ましく眺めた。このような活動が、若い方々の10年後または20年後に活きてくる。「あの時参加したマラソン朗読のなかにはあの本の著者もいたのか」「あのおじさんは教授だったのか」と、あとで知ることになるかもしれない。オンデマンドなどで視聴するだけではなく、参加したことによる教育効果も大きい。

 古代ギリシア語のまま感情込めて読んでいる研究者もいた。現代ギリシャ語で読んでいる人もいた。フランス語の『歴史』は、ララ〜ンと歌っているように聞こえた。イタリア語版は、ヘロドトスがオペラになったかと思えた。ドイツ語版はヘロドトスが堅いイメージで聞こえてしまうのである。スペイン語、ポルトガル語、中国語、ロシア語、ウクライナ語など多彩であった。ヘブライ語での朗読は、『聖書』か(?)と思った。今まで学んだことのない言語で読まれると、もはや “It is all Greek to me!” であった。私の言語能力は底辺部なのでたとえ意味がわかっても理解できないのかもしれない。しかし彼らの言語が持つヘロドトスの世界があるのであろう、とは思えた。同じテキストでも多言語で聴くとここまでイメージが変わるのかと、言語が違うとみえる世界が違うと提示した Deutscher (2011) を体感した(ように感じる)。

 なお、当日のライブ配信では、日本語を理解できていた人間は私だけであったと思われる。おそらく「ダレイオス」などの固有名詞を聞き取れたのだと察するが、画面上のテキストが前に進んでいいのかどうか迷っている動きであった。これも、これで面白い(もし漢字を読み間違えた場合には(故)松平先生に深くお詫び申し上げます)。

 過去に欧州の学会などで出会った研究者も参加していて、懐かしい顔も次々と見えた。世界の各地に散らばってはいるものの、「あの人も頑張ってる」とお互いに思いあえた。紛争や暴力が絶えない暗い感じのする世の中に、暖かい光がみえた(ように思う)。

 英国で午前1〜早朝の時間帯や、担当する人間が見つからなかった箇所については、立案したトムが先導きって読んでいた。指導者とはこういう人間のことだ。責任をとる。だから人が集まる。

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 当然のことながら、コンピューターの不具合などという支障が生じるので、予定より遅れていく。最終的には2時間遅れでゴールしたようである。それでも、約30時間ぶっ通しでやり切った意味は大きいと考える。この間、途中経過のメールが参加者に一斉配信され続けた。YouTubeを確認している人間は質問に応答していた。発案・運営した側には相当の労力がかかったことであろう。逆に言えば、ここまで夢中になれるその情熱は素晴らしい。

 途方もなく呆れ果てるような印象もあるかもしれない。しかしながら、何故か(私の勝手な印象ではあるのだが)全員真面目に取り組んでいた。時間が遅れているなどどうでも良い。奇妙だが面白いのである。誰がうまいか速いのかは関係ない。途中で “it is important to PARTICIPATE”とYouTubeの画面に書き込んだ人がいた。まさにその通りである。参加することに意義がある。これぞオリンピックの精神。とくに何も考えず、人々が自然と集まって一緒に走った。

 ここ2年ほどなかった一体感、または人と人との「つながり」のようなものを、ヘロドトスを通して感じたのではないだろうか。全員が、一つの目標に向かって、第9巻の最後の節まで辿り着くためバトンを渡し続けた。個々に動くことの多い西洋古典分野の研究者陣も IT を利用してここまでできる。無意味だと言われるかもしれないが、虚学の利とはこのことである。ずっと記憶に残るのは、機械的な言語のテストではない。パーセントなどの数字でもない。一緒に「参加した」という体験と記憶である。皆んなが何故か真剣で且つ楽しく取り組み、ゴールまで進み共有したことである。

 スマホやパワーポイントが生まれた時からあるデジタル世代(“Digital Native”)と、コンピューターなど携帯電話がなかった時代を知っている世代(“Digital Immigrants” 1)では思考の仕方がそもそも違う、脳の働き方が変わってくるそうである (e.g., Prensky 2001; Greenfield 2014) 。SNSのおかげで一つのことに集中することがなくなったと思考能力の低下を危惧する傾向には基本的に賛同するものの、オンラインか否か、どちらが良いとか悪いとかいうことでもなく、極端になりすぎず、バランス良く活用することによって、西洋古典の分野でもインターネットの使い方に新たな活路を見出すことができるのではないかと思った次第である。

 そう言えばホメロスの新訳(京大出版会)が出るとゼピュロスの風の便りに聞いた。『イリアス』『オデュッセイア』両方とも24巻ある。多言語ではなくとも日本国内横断すると30時間でゴールに到達するだろうか、と考えてしまう今日この頃。

(2022年6月 西塔由貴子)

参考文献:

  • 1 “Digital Native”と“Digital Immigrants”とは、Prensky によって造られた用語である。