古典学エッセイ
内山勝利:表紙絵「ソクラテスの死」(ダヴィッド)を眺めながら
畳一畳より一廻り以上大きなキャンバスに描かれたソクラテスの死の情景。彼は悲嘆にくれる《仲間》たちをむしろ励ましつつ、いささかの懼れもなく毒杯を受け取ろうとしている。こんな絵を邸宅に飾って毎日眺めていられるものだろうかと思うが、注文者は、死を賭して正義を貫いたソクラテスの姿に鼓舞されて正しく生きようとする意志を日々新たに呼び起こしたのだという。絵画は必ずしも美を享受するためのものとは限らないようだが、しかし作品を前にして自戒の念を強くするためであったにしても、作品そのものがすぐれていてこそのことだったに違いない。
この作品がプラトンの『パイドン』を踏まえてのものであることは言うまでもあるまい。しかしまた、その最後の場面を必ずしも彼の記述に従って描いているわけでもないことは明瞭である。その場には、プラトンによれば、10人以上の人たちがいたはずだが、描かれているのはその半数にも満たない。一応特定されている人物は、ベッドに腰を下ろして、赤い服を着た牢番からまさに毒杯を受け取ろうとしているソクラテスを中心に、その膝に手を掛けているのが彼の老友クリトン、部屋の外の壁にもたれるようにして、おそらく大声で泣き叫んでいるのがアポロドロス(プラトンによれば、激情家の彼はこのとき誰より先に「叫び声を上げて泣き崩れた」)、そしてソクラテスに背を向けるようにしてベッドの裾にもたれて俯いているのがプラトンだとされている。『パイドン』によれば、彼はこの日病気だったと思う、とのことであるが(59B)、むろんそのアリバイは信ずるに足りないだろう。しかしソクラテスを除く全員が悲嘆にくれている中で、ただ一人無彩色に近い色合いで描かれ、深い思いに沈んでいるような彼の姿は、もともと絵画全体にわたって各人物の年齢などは史実無視とはいえ、とびきり実年齢(28歳くらいだったはずだ)を離れた老人として描かれているとともに、ほとんどその一瞬のドラマの外にいるような異質の雰囲気を漂わせているのではないだろうか。やや想像をたくましくすれば、ここに描かれているのは、実は後年の『パイドン』を執筆中のプラトンの姿であり、さらに言えば、この場の情景はそうして思いに沈む執筆中の彼の想念の中に思い描かれたもの、それの幻想的投影として構成されたものと見ることもできるのではないか。足元にパピュロスが投げ出されていているのも、それを示唆しているように思われる。明らかにその一巻の末尾あたりが開かれた状態にあるが、これがもしも対話篇『パイドン』を記したものであるとしたら、プラトンはまさに今この絵と同じソクラテスの最後の場面を書き終えて、静かに、しかし誰よりも深い悲しみに打ちのめされているのであろう。
他の人物についてはさほど特定されていないようだが、思いつくかぎりで振り当てるならば、ソクラテスのすぐ右奥に寄り添っている若い二人は、この日のソクラテスとの対話を両者交互に交わしていたシミアスとケベスが相応しい。そして右端奥で右手を差し上げ、もう一方の手で目頭を押さえている若者はパイドンではないだろうか。きれいに編み上げた髪型は当時のスタイルにはないが、対話篇中にソクラテスが彼の頭を撫でながら、「明日にはその美しい頭髪を切ることになるのだろうね」と語りかける印象的な場面がある(89B)。対話篇の筆者プラトンとその語り手のパイドンが画面の両端に、しかもともに人物の輪の外に配されているのは、十分に意図された構図と言えるのではないだろうか。(もっとも、先ほどシミアスとケベスに擬した二人の一方も長髪なので、それだけでは決め手とはなりにくいが。)そして、彼らの間にいて、最もはっきりと顔を見せている白髪長髭の老人はアンティステネスとすべきであろうか。その容貌はよく知られた彼の彫像のいくつかに比較的よく似ている。道徳的なモチーフを重んじたこの絵の注文主としては、できればこの哲学者を特に目立った姿で描き入れてもらいたかったということも、十分考えられよう。
以下はさらに言わずもがなのことであるが、われわれが『パイドン』を読む場合のイメージとして、この画像が固定的に擦り込まれないように、多少揚げ足取りめいた点を付け加えておきたい。
ソクラテスが最期を迎えた牢獄(デスモーテーリオン)は、最近ではむしろ周知のことでもあろうが、アゴラーの南西部外側にある前5世紀の遺構の一つがそれだと同定されている。それは地上二階建ての細長い建物の跡で、一階の8つの房室と役人や牢番用の部屋の土台配置がはっきり確認される。房室の一つは浴室で、たしか発掘時にソクラテスを象った小さな石像が見つかったのはその部屋からではなかったか。
言い伝えでは、ピロパッポスの丘にある石窟がソクラテスの牢獄とされてきたし、そう呼ばれている石窟が他にもう一個所あるが、むろんいずれも全く無関係で、単なる古い石切場の跡にすぎない。しかしそのイメージが強すぎるせいか、晩年のロッセリーニが手がけたテレビ用の教育映画『ソクラテス』(1971年)でも、牢獄はやはり洞窟内に設定されていたのが思い出される。ソクラテスは洞窟に閉じ込められていた訳でもないし、またダヴィッドが描いたような地下牢(画面左奥に三人の人物が地上への階段を上ろうとしていることで、それと分かる)だったのでもない。ついでながら、この三人は、ソクラテスが静かな死を迎えるために先に帰された彼の家族の姿だとされることもあるが、いずれもかなり高齢の男性であってみれば、彼らはむしろ死刑執行の時を伝えて立ち去った「十一人」(刑務委員)と見る方が適切ではないだろうか。あるいは、いかにも牽強付会にすぎるかもしれないが、この「三人」とはソクラテス裁判を仕掛けた三人の訴人(アニュトス、メレトス、リュコン)をあえて描き込んだと考えてもみたい。一人が手を振るそぶりをしているのは、ソクラテスへの悪意を示しているようにしか見えない。
地下牢の設定にもかかわらず、この絵にダヴィッドが差し込む日の光と影をかなりはっきりと描いているのは意味深い。明らかに日はすでに大きく西に傾いているのが分かる。処刑は太陽が山の端に没するまでに行われなければならない。中央に描かれた燭台の影は、もはや寸前に迫ったソクラテスの死を暗示しているのである。もっとも、地上にあった実際の牢獄からは、沈み行く太陽と西側の窓から届く西日がさらにはっきりと皆の目に映っていたのだったが。
そして、この牢獄の位置からもう一つ思い合わされるのが、ソクラテスが裁かれた法廷がどこだったのかということである。『パイドン』によれば、ソクラテスの「仲間」たちは、連日早朝から「あの裁判が行われた法廷に集まって」彼の元を訪ねることにしていたのだが、それは「そこが牢獄から近かったからだ」と言われている(59E)。とすれば、やはりアゴラーの南西端近くに以前からヘーリアイアー(裁判所)とされている方形の区画があって、まさにそれにぴったりだと思われた。牢獄との距離は100メートルほどである。
しかし最近の研究によれば、この遺構はたしかに古くからある裁判関係の施設ではあるが、ヘーリアイアーではなく、その施設が位置していたのは、広いアゴラーのちょうど対角線的に反対側、北東の隅だったとのことである。(これについて、またヘーリアイアーの建造物の構造と変遷については、岩波書店刊『新・アリストテレス全集』所収の橋場弦訳『アテナイ人の国制』に詳しい注解がある。)しかしながら、それではとても「牢獄の近く」とは言えない。したがって、もしソクラテスの牢獄の位置が正しいものとすれば、彼の裁判が開かれたのは正規の(?)ヘーリアイアーにおいてではなかった、ということになろう。わざわざ「あの裁判が行われた法廷(ディカステーリオン)」と断られているのも、それを示唆しているとも解されよう。実際、当時の法廷はその規模に応じてそれに見合った公共の建物や劇場、またときにはアレイオスパゴスの岩場で、さらにはアゴラーの一郭を仕切って開かれることもしばしばだったとのことである。ソクラテス裁判もそういう場所のどこかで行われた公算が高い。とすれば、あの牢獄近くにある「伝」ヘーリアイアーの「矩形周壁」も、やはりその有力候補の一つとして考えられようか。
しかしこれ以上の詮索はしないでおく。話はとうにダヴィッドの絵から遠く離れすぎているのだから。
内山勝利 2022/3/1