古典学エッセイ

安西眞:「ブリーセーイスを使者に託すアキレウス」の図に寄せて(その2)

 最初の寄稿文には、画面に描かれたひとりについての言及が欠如していたので、ここで、それに補いを加えたいと思う。そのひとりとは、画面のこちらから見て左端の人物のことである。明らかに保存状態は悪く、この人物の表情はまったく伝わっていない、と言うべきであろう。それでも、その人物の特定を試みよ、と言われれば、これは女神アテーネー、と答えるしかない。黄色、あるいは黄金色と言うべき衣装(431BC、ペロポンネーソス戦争突入を決意したアテーナイは、その戦費に充てるべく、6000タラントンの黄金をパルテノンにましますアテーネー女神像に貼付けた形で蓄えていたという。ただし、『イーリアス』などに見られる、定形表現体系には、アテーネーと黄金色の何かが結びついた冠飾語的形容詞の例は見つからない)と、英雄の右腕を制止しているかに見えるその人物の右手がその答しかないだろう、と教えている。

 アガメムノーンとの口論が進み、総大将が、自分を頂点として確立した命令系統に抵抗しようとする者への見せしめの為に、自分に罵倒を浴びせたアキレウスからクリュセーイスの代替となる女を取り上げると宣言する(『イーリアス』1.173-87)。感情が激した英雄は、総大将を殺そうと刀の柄に手をかける。その時、ヘーラーの命により天から舞い降りたアテーネーが、彼の髪の毛を後ろから掴んで、制止する(『イーリアス』1.188-222)。「アキレウス、ブリーセーイスを使者に託す」の段(『イーリアス』1.326-48)には、女神がブリーセーイス引き渡し儀式に直接関与したとは歌われていない。ただ、彼女の引き渡しが、女神による制止と、原因・結果の系列という面で、全く無関係とは言えないから、描き手が「深読みをつうじて」描き込んだ、と解するしかない。もし本当にこの人物をアテーネー女神だとして画家が描き加えた、と理解する他ないとすれば。

 この人物をアテーネー女神だとして画家が描き加えたとすれば、いくつか疑問がある。他の人物たちに比しての、この小ささは何を意味するのか? 神々はかれら初期のギリシア人にとってはるかに、寸法上大きな存在として想定されていたのではないのか? 画面の端で損傷が激しく見えもするが、損傷などではなくて、そもそも「幽霊」でも表現するように画家は描いたのではないか、という疑念すらも筆者には、ない訳ではない。

 しかし、そのような疑念をとりあえずここでは無視しても、私には、『イーリアス』を読むということに関して、この画家と争いたいことがある。その争いとは、英雄叙事詩という物語詩が、神々とどのような関係にあるか、という問題についてのものである。

 ギリシアのある地域のひとびとの間に、記憶をつうじて把握可能な範囲内に、英雄叙事詩詩人たちと聴衆の間で共有されていた、ある架空の文化的概念である『英雄時代』というものが成立していた、と私は考えている。ここでもちろんその架空の時代をヘーシオドスの引用をつうじて論じる余裕はない。ごく簡単に言うと、こういうことである。家族の系譜による社会集団の構成に婚姻その他の関係による副次的な関係を加味して規模の拡大の補助とした社会構成法(『英雄時代』がその最終段階、社会人類学的には「部族社会」)がギリシア語を話す人間の間で力を大幅に失いはじめつつあり、それに替るものとして、言葉・法・契約を集団構成の為の核とする社会(ポリス社会、法社会)が勃興しつつあった。社会全体としては激動の時代である。それが2大叙事詩の背景にある「時代風景」だと私は考えている。もちろん『英雄時代』によって呼ばれた社会集団法およびその指導的な力を有した層は、時の流れに従えば没落必至の存在である。そういう歴史的な圧力の中でもがく人間たちに、彼らの果たした歴史的な役割に相応しい物語を紡がせるのが英雄叙事詩の口承詩人の果たした役割であろう。その『英雄時代』に生きたひとびとが宗教的行動の対象とした雑多な神々に統一した名前を与え、その神々を物語叙事詩の中に、英雄たちの生きる環境の大きな要素のひとつとして詩人が取り込んだ時、その神々は、言うまでもなく、通常の社会の中の神々ではなく、詩人に緊密な構成を持った英雄たちの物語を展開させる為の武器となった。

 アカイア勢の問題を論じる議論の場で、発言権を保証する杖を捨て、「自分が戦場を去ればヘクトールに君たちは苦しめられる。その時になって敬意を払うべき戦士に対して相応しいものを払って来なかったことを悔いても遅いぞ」という、いわば捨て台詞を吐いて、議場を去ったアキレウスに、これから先アカイア勢とどういう距離を取るかという決断を獲得し終えている筈のアキレウスに、こと「手渡し」の場に至れば、乱暴は働かないという自制は確として既にあった筈だ。アテーネーが右手を押さえてくれる必要などこの手渡しの場面には存在しない。つまり、髪を掴んだ制止の時、アテーネーは、行動を決する危機に直面した主人公に、何らかの行動選択が、物語を展開して行く上で余儀ないぎりぎりのものであったということを物語の為に保証するなにものか、であったのであり、極端に言えば詩人のための道具であったのであり、英雄叙事詩の成立期に現実にあった宗教的要素とは直接には何らの関係もない。私が述べた叙事詩の神々に対する態度は、少なくとも英雄叙事詩の神々に関する理解の中では、けして特殊なものではない。絵だけ見ても、明るいとはけして言えないにしても、「泰然」とも称すべき態勢の中にあるアキレウスにとって、制止する神の手は不釣り合いではないのか。ことは毒舌にまで達しかねないので、この辺でこの魅力的な絵の画家でもあり、筆者に『イーリアス』を理解する上でのたくさんの刺激をくれた教育者でもあるひとに、これ以上批判を加えるのは自制したい。

 最後に、始めの稿が、この黄金色の衣装の人物を無視している点をやんわり注意してくれた中務さんと、各列の人物群の間の距離について、長々と電話で話し相手になってくれた東洋大学の泰田さんにお礼を述べておきたい。確かに、アキレウスの臍辺りの筋肉の形、英雄の背に見える緑色の布、その布の上に置かれた中央の側の非武装人物の左手、これらを考慮すれば、アキレウスは椅子に座しており、彼とこの非武装人物との間の距離は1メートル以下と計測すべきです。お詫びして訂正いたします。

安西眞